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Kenの日記
by Ken
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■マニラの悲劇
長崎医科大学の「永井隆教授」が被爆直後の自らの被爆体験を綴った「長崎の鐘」と共に収録されているのが「マニラの悲劇」です。「長崎の鐘」はGHQの検閲によって出版が許可されず、GHQから日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である「マニラの悲劇」との合本することとされて1949年に出版されたのでした。ということで今回借りた「人間愛叢書(2009年発行)」でも「マニラの悲劇」との合本となっています。私もそうでしたが日本人読者としては「長崎の鐘」を身近なもので熟読するのですが、「マニラの悲劇」の方は読み飛ばすことが多いのではないでしょうか。

私は会社の仕事の関係で何回かマニラ出張の機会があり、何回目かの出張の折に仕事が早く終わったのでサンチィアゴ要塞を見学したことがありました。サンチィアゴ要塞はマニラ歴史地区「イントラムロス」の北側にあってマニラ観光のポイントにもなっています。そしてそこには日本軍によって多数のフィリピン人が殺害されたことを記した碑が建っていました。この碑のことはこのサンチァゴ要塞にあるリサール記念館の「オセイサン」の肖像画とともに私に引っ掛かっていたのでした。今回「長崎の鐘」を読んだことによってマニラでの「引っ掛かり」が少し解けました。

1941年真珠湾を攻撃した日本(帝国)軍は直ぐにアメリカ植民地フィリピンの攻略に取り掛かりました。当時台湾は日本の領土であり台湾基地からフィリピンルソン島はそれほど遠くはありません。そしてフィリピンを守備していたのがマッカーサーであり、日本軍の侵攻を受けてオーストラリアに逃れたマッカーサーが「I shall return」という言葉で日本軍に対して再起を期したのでした。1945年太平洋の拠点を一つ一つ攻略してきたアメリカ軍はフィリピン奪還作戦に着手しました。マニラに拠点を置く日本軍は徹底抗戦を決めて多数のマニラ市民を戦禍に巻き込んだのでした。そこで発生したのが「マニラ虐殺」でした。敗戦濃厚となった日本軍が野蛮で無慈悲な行動に出たことは十分あり得たことです。アメリカ軍は軍人・マニラ市民・キリスト教関係者からの日本軍の行動に関する証言を聴取し詳細に記録しました。その証言集が「マニラの悲劇」なのです。

日本(帝国)軍は敗戦に際して各所で記録を焼却したり捕虜を殺害したりしました。戦争の記録とか記憶を基に作られた戦記ものでは日本軍が全滅したとか日本軍が英雄的に戦ったとかいう日本側の話は多く残っていても、日本軍が現地で行った蛮行が記録されていることは少ないと思います。この種の記録は抹殺されることが多いことは容易に推測できます。証拠を消してしまうのですからある意味で当たり前だと思います。しかしここでは日本軍首脳部の発した命令が確認されており作戦はその通り実行されました。

1945年2月13日「大隊命令」
「比島人を殺すときは、一箇所に集めて之を行い、弾薬および人力を過度に消耗せざるよう配慮すべし。死体の処置は困難多きにつき、焼くか、若しくは破壊を予定されある建物に彼等を集めるか、あるいは河中に誘導すべし」
1945年2月13日「小林軍団命令」
「日本軍将兵、日本軍一般人、特別建設班を除き、戦場にある者は全て殺すべし・・・」

「永井隆教授」が長崎の記憶を作品に留めたことと同じようにマニラでは現地の証言が残されました。「長崎の鐘」を読んで受ける衝撃と全く同じように、日本人は「マニラの悲劇」をキチンと理解し反省しなければならないと思います。一部に「マニラの悲劇」はアメリカ軍の無差別爆撃が原因の一つであるとするような向きをあるようですが、他人の行為によって自分の罪は軽減されないことは明らかです。自分達の同胞が犯した犯罪を知っておくべきですし、自分にも同じような行動を起こしかねない血が流れていることを自覚すべきだと思いました。

戦後70年が近づいています。平和社会を維持するためには同胞の犯した戦争犯罪に正しく向き合い必要があると思いました。忘れたり、隠したりすると人間は何を始めるかわかりませんから。
05月23日(金)
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