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Kenの日記
by Ken
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■澳門の孫文記念館
澳門旅行で「孫文記念館」に行きました。この記念館はあまり解説されていないので調べた歴史を記載しておきます。
香港で医学を修めて澳門での医療活動に従事した孫文は、中国革命のための活動を開始して1895年には広州起義を起こしました。その10年後1905年には東京で「同盟会」が結成されて革命組織が強化されその後の数次の武装蜂起を経て1911年秋に辛亥革命が実現しました。そして孫文は大統領に選出されます。しかし選出された「大統領職」は僅か3ヶ月で実力者の袁世凱に譲らざるをえませんでした。孫文の民主主義国家建設のため活動はまだ道半ばでした。
1912年孫文はほぼ20年ぶりに「鏡湖医院」「東西薬局」等の医師として暮らした澳門を訪れました。このとき孫文は革命指導者としての名声を確立していました。澳門の実業家の「盧家」の家に宿泊した孫文は故郷香山県に残ししてきた妻を澳門に呼ぶために「盧家」屋敷(現在のLou Lim Ieoc Garden)近くに、妻(盧慕貞Lu Muzhen)・子が住むための家を建築しました。これが現在の澳門孫文記念館が建っている場所です。
孫文が妻の「盧慕貞」と子供達のために澳門に家を建ててから程なく、日本に戻った孫文は秘書の宋慶齡と恋に落ちてしまいます。妻の「盧慕貞」は宋慶齡を「妾」にすることを願ったようですが、キリスト教徒の宋慶齡と孫文は正式な結婚を望み孫文は「盧慕貞」とは正式に離婚しました。
孫文と結婚し(1915年10月)妻となった宋慶齡はその後の孫文の建国活動を支援することとなり、国民党と中国共産党の争いにおいては中国共産党を選びました。宋慶齡は中国共産党から「名誉主席」の称号を与えられ建国の父孫文の妻として厚く処遇されました。
一方の盧慕貞とその子供達は国民党の側に身を置くこととなりました。その結果でしょうか澳門の「孫分記念館」は台湾政府の出資するファンドの所有となっています。台湾関係の資料が豊富で入口右側の孫文の胸像の左右には「青天白日旗」がずらりと並んでいました。
孫文の前妻の「盧慕貞」は澳門のその場所で彼女の息子(孫科Sun Ke)と二人の娘(Sun Yan (孫延), Sun Wan (孫叙ョ)on Sun Ke)と孫文の長兄のSun Mei (孫眉)が暮らすこととなりました。その後付近の爆発事故で家屋が損傷を受けると、台湾政府、ハワイに住む孫文の兄等から支援を受け今の広大な3階建ての非常に立派な家屋を建築しました。これが現在の記念館の建物で、完全に西洋式で、木の床に木製の家具・ワードローブを備え、広い浴室には水洗トイレが完備されて大きなバスタブが作りつけられている。
「盧慕貞」は1952年になくなりましたが、その死後にこの建物は1958年に「孫文記念館」と命名されて保存されることとなりました。建物の北側の庭には梅屋庄吉が孫文の死後に中国に寄贈した4体の孫文像のひとつが建っています。因みに他の三つは上海、南京、広東(黄埔)にあるということです。
05月16日(木)
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