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Kenの日記
by Ken
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■小笠原丸の沈没(8月22日)
1945年の8月22日北海道東部の増毛町沖で乗組員と乗船者約700名を載せた海底ケーブル敷設栓の小笠原丸(総トン数1404トン)が国籍不明の潜水艦の攻撃を受けて沈没したのでした。この沈没から生き残ったのは乗組員と乗船者併せて60名だけでした。この事件の情報をまとめて記載しておきます。
昭和20年6月「樺太−北海道」ケーブルが不通となり青函ケーブルにも障害が出ていたことから、海底ケーブル敷設船の小笠原丸がこれらのケーブルを修理するために北海道の海域に向かった。同船は8月にはケーブル修理を完了して利尻方面の工事のために稚内港で待機中に終戦を迎えた。
日本のポツダム宣言受諾直前の8月9日のソ連参戦時には南樺太には約40万人の民間日本人が住んでいた。ソ連の樺太侵攻前に出来だけ多くの民間人を樺太から退避させるため、本土避難の対象者として65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女の約16万人が15日間かけて北海道に移送する計画が作られた。
引揚船として大泊(おおどまり)を主たる乗船地として稚泊(稚内−大泊)連絡船「宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻、本斗(ほんと)から稚斗連絡船「樺太丸」と小型艇30隻、真岡(まおか)からも貨客船「大宝丸」などを運航することとなった。陸上では乗船地に向けた疎開列車編成とトラック輸送が行われた。
実際の引揚は13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達されたため、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了となった。(ウイキペディアより)
稚内港に停泊中であった海底ケーブル敷設船の小笠原丸も、豊原逓信局の依頼もあって樺太在住民の老幼婦女子部内職員およびその家族の引揚者の移送を行うこととなった。小笠原丸は8月17日に稚内港から樺太の大泊港へ出港し、同港で約1500名の引揚者を乗船させ19日には稚内に帰港。大泊にはなお数万の引揚者が待機中であったために小笠原丸は第二回目の引揚任務に向かうこととなった。20日午前7時稚内出港、午後5時には大泊に係留し避難者約1500名を乗船させた。
20日の朝には日ソ国境付近からのロシア軍の侵攻に加えて、樺太西海岸の真岡にロシア軍が上陸し引揚げようとする日本人への攻撃を開始していた。事態が緊迫していたことから大泊の小笠原丸は20日夜11時45分に出港し、21日午前11時に稚内に帰港し稚内で約900名の乗船者を降ろし、残りの600名引揚者を乗せたまま21日午後4時ごろ小樽港にむけて出港した。
そして8月22日午前4時22分、北海道増毛郡増毛町カムイエト岬の約4海里沖合いを航行中に魚雷攻撃を受け大破沈没した。国籍不明の潜水艦は暫くしてから海面に浮上し残虐にも浮流者に機銃掃射を加えた後に再び潜航したのだという。
小笠原丸は攻撃を受け瞬時に沈没したのであるが、幸運にも一隻の救命艇がスタンバイ状態であったために漂流中の乗員がこれに泳ぎ着き付近に漂流者49名を救助して午前9時30分頃増毛町のカムイエト岬付近に到着して救助を求めた。カムイエト部落ではただちに2隻の早速漁船で救援に向い約一時間後に11名の漂流者を救助して帰着した。そして急報を受けた増毛町の連合部落会では15隻の漁業用発動船で救援に向い付近で漂流中の11遺体と漂流物150個を回収して正午過ぎ増毛町に帰着した。
同じ8月22日には小笠原丸の他に、第二新興丸(2500トン)と泰東丸(880トン)がともに樺太からの多数の引揚者を乗せて北海道に向かっていたところ、国籍不明の潜水艦の攻撃受け沈没している。それぞれ667名、400名の犠牲者を出した。小笠原丸を含めたこれら3船沈没の悲劇は3船殉難事件といわれている。
08月22日(水)
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