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Kenの日記
by Ken
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■「横浜中華街孫文の足跡」ついに参加
今日25日横浜シティガイド協会主催の「横浜中華街孫文の足跡」の散策コースに参加してきました。昨年2回空振りだったので3度目の正直でした。生憎の雨で非常に寒い中の開催だったのですが、孫文ファンが多いのか60人程の参加で3グループの分かれて横浜中華街を歩きました。昨年は辛亥革命100目、今年は日中国交回復の先駆けの田中首相訪中40年目にあたる年でありシティガイド協会(NPO)もこのような企画を催したとのこと。下記の順番に歩きました。
1.集合
JR石川町集合(午前9:30)本日のツアー(3班)のガイドの山田さんによる概要解説。横浜中華街には大陸系・台湾系の人々が一緒に暮らしているので政治向きの話は中華街ではしないとの前置きあり。なお最初に行く大同学校が台湾系であることに対して大陸系の学校は山手に移り、現在石川町駅前にある「横浜中華学校」である旨の解説があった。革命(孫文派)、保皇派(康有為派)、大陸、台湾と中華街も政治的に複雑なのですが、孫文を尊敬していることは共通のようです。
2.大同学校(横浜市中区山下町140番)
1897年、興中会横浜支部長の馮鏡如ら横浜華僑のより孫文が「中西学校」として創立。後康有為によって1899年「大同学校」と改められた。孫文の胸像があることで有名である。「日・英・中国」の3ヶ国による授業のため日本人に人気があって入学の競争率はかなり高いらしい。
3.陳少白宅跡(山下町119番地)(現NTT東日本敷地)
大同学校から関帝廟、中山路、市場通りを経て陳少白宅跡へ。現在はNTT東日本のラインマンセンターとなっている。孫文は1897年8月16日から1年間滞在。ここは加賀町警察と清国領事館の両方に近い場所であるにもかかわらず、政治亡命者の「孫文」が比較的自由に行動できたということは注目に値するとの指摘あり。イギリスで孫文の清国領事館誘拐の事件を考えるとまさしく微妙な感じがしますね。
4.温炳臣宅(横浜市中区山下町121番)
1898年8月29日、孫文はレンガ造り西洋館の温炳臣宅へ転居した。ここへは東京から犬養毅、頭山満、山田純三郎らが訪れているとのこと。孫文はここで二階に越してきた大月薫と結婚(大月薫の話はまた複雑に発展します)
5.清国領事館跡(現山下町公園)
温丙臣宅から本当に目と鼻の先。
7.旧和親劇場跡(横浜市中区山下町97番)
1925年3月12日孫文の北京での病死の後同年4月12日孫文の追悼会が開催された。現在はコインパーキングとなっている。となりは横浜華僑キリスト教会である。
8.キングセール商会(文経堂印刷)(横浜市中区山下町53番)
孫文が1895年に初めて日本へ亡命した折に滞在した。ここで興中会横浜支部が結成された。華僑「馮鏡如」の宅。馮鏡如は後に保皇派に転向。イギリス国籍を有していたためキングセール商会とも言う。旧山下町53番地付近には立派な横浜芸術劇場が建っている。そこの番地は「山下町281番」となっており旧の53番地などは消滅したとのこと。横浜芸術劇場には建築中に出土した居留地の遺構が少し保存されている。
歴史は非常に複雑だし紆余曲折があったのですが、結果的に現在の中華街の繁栄があり、横浜の山下町の近代的なビルの地下には旧外国人居留地の遺構が眠っています。歴史をきちんと把握し後の世代に伝え、過去の遺構をできるだけ保存していくことが大事だと痛切に感じました。
02月25日(土)
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