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Kenの日記
by Ken
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■旅順観光
今日はガイドの「白」さんにお願いした「旅順1日ツアー」です。朝8時30分に「白さん」と運転手の「劉さん」がホテルまで迎えに来てくれました。車で一路旅順を目指しました。旅順へ向かう道は結構広く市内電車が横を走っています。この市内電車は現在は途中で切れていますが、旅順市内まで至る所で建設中で近い中に大連から旅順まで繋がりそうです。
旅順は日露戦争における激しい戦いの場でした。日清戦争の結果日本は遼東半島の租借権を獲得しますが、その後の三国干渉によって遼東半島の租借権はロシアが手に入れました。当時ロシアは太平洋に拠点を確保するためにシベリア鉄道を建設してウラジオストックを開発する計画を進めていました。それに加えてハルピンから直接南下して遼東半島にも旅順・大連の戦略基地を建設しようとしたのでした。遼東半島の旅順はウラジオよりずっと戦略的に優れているのです。ロシアは天然の良港である旅順の周り山々に堅固なトーチカ陣地を建設して軍港の守備を固めていました。
明治37年(1904年)始めに開始された日露戦争は、朝鮮半島・中国北東部(満州)の領有を争う戦争でした。ロシアの旅順軍港は海軍が海から攻めて、最悪でも封鎖するはずでした(3月)が、それが不徹底に終わり陸軍が陸の方から攻めることとなったのでした。そのために乃木大将を司令官とする第三軍が編成されました(5月)。実は日清戦争においても乃木は旅順を攻めて比較的容易にそこは陥落させていたのですが、今回は徹底的に守りを固めたロシアが相手だったので大苦戦を強いられました。
現在旅順で観光コースとなっているのは「東鶏冠山、203高地、水師営会見」の場所です。東鶏冠山は旅順港の東北にあって大陸方面からの玄関口であることから、防御のためにロシア軍の基地は厚いセメントで覆われていました。現在でも小石を混ぜた1m以上の厚さのセメントの被いを見ることができます。正面突破に拘った乃木軍はここで甚大な消耗戦を繰り返しました。見かねた現地参謀本部の児玉源太郎が急遽指揮を採ることになりました。児玉は東鶏冠山から西側の203高地に目標を変更します。
急遽備え付けた28センチ榴弾砲による援護と、日本兵の最後の肉弾戦がロシア兵の防御を上回りようやく203高地を落としたのでした(12月5日)。その後東鶏冠山にとって返してこれを落とし旅順での戦いは日本軍の勝利となったのです。水師営での会議には乃木大将とロシア側のステッセルが望みました。嘗ての場所には昔風に再現された建物が残っています。これは少し観光用という感じがしました。どうしても横のレストランで食事を取るシステムになっているようです。
旅順・大連の遼東半島は日露戦争の後、日本が清国から租借することになりました。その後の日本の大陸侵攻の拠点となっていくわけです。その辺りのことはまだ観光化されていません。歴史的にも曖昧な部分が多く、日本人も良く知らないことが多く、非常に微妙な問題も含んでいるのだと思います。観光地とするにはまだ時間がかかるだろうと思われます。
その時期というのは、中国側としても「清朝滅亡と復壁(土はいらない)運動、孫文の革命運動、共産党の活動開始、各地の軍閥の勝手な動き」と国内は混乱していました。これに日本の大陸進出戦略と欧米列強の思惑がからむのですから大変です。
その他、旅順では「旅順博物館、関東軍本部建物、旧ヤマトホテルと粛親王の旧宅」を見ましたが、これらの遺物は大きな歴史の流れのなかでのそれぞれ挿入話のような歴史のひとコマを演じた場所でした。
07月16日(土)
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