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Kenの日記
by Ken
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■孫文と長崎福建会館

長崎の唐人街の「福建会館」です。長崎出張の際は「新地」に泊まる事が多いのですが、新地から少しあるくと唐人街がありそこには4棟ほど古い中国様式の建物が残されており、「福建会館」はその中でも中心的な建物です。福建省出身の華僑の方が多く住まわれていたので、福建会館はそうした華僑人達の交流の場であったようです。
この福建会館において1913年3月22日に来日して長崎を訪れた「孫文」の歓迎会が催されました。その時の写真が福建会館の中に飾られています。幾度も武装蜂起に失敗した中国革命運動ですが、1911年(辛亥)の武装蜂起が成功し、孫文は1912年中華民国臨時政府の大総統に就任しました。しかし革命政府内での力関係から、数ヵ月後に大総統の地位を「袁世凱」に譲り、孫文自らは「鉄道大臣」のような職を引き受ける事となりました。この時の来日は中華民国鉄道大臣としての公式な訪問となったのでした。しかしそんなことでは決して挫けないのが「孫文」でした。下のこの胴像は福建会館に建つ「孫文」です。

追記:気になって調べたら、革命家「宋教仁」が上海駅で銃撃されたのが1913年3月20日、死亡したのが3月22日のようです。「宋教仁」は孫文とは全く別に革命運動に従事してきて、日本亡命中に宮崎滔天の紹介で孫文としりあうこととなった人です。辛亥革命の際には外国遊説中の孫文とは違って、現地の武昌に参加し、袁世凱が大総統に就任した後は、徹底して共和制を主張し袁世凱の独裁に反対しました。清末・中華民国成立時期には袁世凱の動きが非常に大きな影響を与えたのですが、この宋教仁暗殺も将来に非常に大きな影響を与えたと思います。日本を公式訪問中の「孫文」は3月23日に長崎で長崎華僑団体の歓送迎を受けたのですが、この時上海での革命同士でありライバルでもあった「宋教仁」遭難をしていたのでしょうか。
10月16日(金)
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