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Kenの日記
by Ken
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■「佐野市」散策
今日は天気が良くはなかったのですが、佐野市の散策に出かけることにしました。目的は佐野市の郷土博物館で開催されている「須永元」の特別展でし。しかし、佐野市というと他に「佐野ラーメン」「田中正造」など色々興味深い歴史を有する街ですので一度訪れてみたいと思っていた場所でした。



佐野市の北東部郊外にある佐野ラーメンの「おぐら屋」です。午前11時の開店20分前に行ったのですが既に玄関前には行列ができていました。20分ほど外で待って開店と同時に入店。店内の席はすぐにいっぱいになり外には行列ができ始めました。注文したのは定番のラーメンと餃子。ラーメンはあっさりしたスープに独特の「まろやかな麺」。おいしさを主張するタイプではないけれど非常にバランスが良く上品な感じがします。餃子は野菜たっぷりの大ぶり餃子。従業員がよく訓練されていて「てきぱき」と動いていたのが印象的でした。外で待っているときから地元の「とちぎテレビ」の撮影クルーが来ていて、店の繁盛ぶりを記録していました。県外ナンバーということで私達の車も撮影されたみたいです。とにかく佐野市にはたくさんのラーメン屋があって、人気の店には行列ができています。この「おぐらや」をはじめ、街で見かけたラーメン屋のいくつかにお客が群がっていました。たいしたものです。



「田中正造」の生家。ラーメンの「おぐらや」がある佐野市北部郊外から市内に向かう街道沿いにあります。県道237号線の「旗川」を渡ったすぐ左側にあります。田中正造は明治時代の政治家で足尾銅山鉱毒事件で明治政府と渡り合った人物です。佐野市郷土博物館には「田中正造」に関する展示が豊富です。明治維新後の殖産興業に邁進する明治政府の「ゆがみ」を糾したことに非常に大きな意味があると考えています。明治維新後の明治政府は列強に対抗するため、かなり無理をして国力強化を行いました。殖産興業、薩長主導政府を支える官僚制・官立学校制度確立、軍事力増強等ですが、そうした体制強化に国民の考え・目標を集中させたことにより、一方で国家全体が盲目的に戦争に向かって突き進んでしまったともいえます。明治・大正・昭和の国民は「田中正造」のように国に対して正面から「異論」を唱えることができなかった。これに匹敵するのは、世代が限られるものの戦後の「安保闘争」くらいしか思い浮かびません。「田中正造」の依頼により書かれた荒畑寒村の「谷中村滅亡史」は私が若い頃に買った最初の社会問題を扱った本でした。

政府が盲目的に方針を決定し(諸外国の動向・歴史の推移をよく見極めずに)、国民が盲目的にそれに追随するという構図は、今でもあまり変わっていません。日本の「新型インフルエンザ対応」は典型的な例だと思います。



佐野市内の戻って佐野市郷土博物館を見学しました。博物館は佐野市の大橋町の「例幣使街道」沿いにあります。例幣使街道とは江戸時代に京都から日光東照宮に定期的に通った「例幣使」が通った道で、中仙道の「倉賀野」から日光に向かって東に伸びる街道でした。丁度現在の国道50号線のような街道です。さて博物館の須永元の展示ですが、今回は須永の修行時代の展示が中心のようでした。私の興味は須永が慶応義塾を出た後に朝鮮独立闘争家を支援したことで、今回の展示ではほとんど触れられていませんでした。

須永元の旧家は、博物館の道を挟んで反対側の佐野市市民プールの場所にありました。上の写真がプールの入り口です。季節外れのプールは草に覆われて荒涼としていました。このプールの奥の一番南側に須永家の庭園・築山の部分が少し残っています。柵の中に入ってみてきました。かつてはさそ立派な庭園だったと思わせる植木が残っています。しかし訪れる人はほとんどいないようです。日本と朝鮮の過去の歴史に目を向けることを避けているようです。金玉金を始めとする須永が支援した朝鮮の政治家は「閔妃暗殺」の罰を逃れて日本に逃れてきた人達でした。このあたり以降の歴史はあまり語られることがありません。


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05月24日(日)
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