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Kenの日記
by Ken
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■遍路二日目:松山市内・道後温泉へ
繁多寺は松山市南東の高台にあり境内から松山市が望めます。晴れていれば素晴らしい眺めを楽しめるはずです。繁多寺には2時30分頃に到着しましたが雨足が大分弱くなってきました。それでも空は厚い雲に覆われていてすっきりしません。遍路道は松山の道後温泉を目指していますが、その手前に第51番石手寺があります。

石手寺は独特の雰囲気を持つ「現役のお寺」という感じがしました。石手寺では山門を入ってっからアーケードのような作りの参道の両側に参拝用品店がずらっと並んでいます。「石手寺」の名前の由来は以下の通りです。

この地方の富裕な百姓「衛門三郎」の家の前に一人の旅の薄汚れたお坊さんがやってきて托鉢の鈴を鳴らしました。昼寝をしていた衛門三郎はお坊さんを追い返そうとしたのですがお坊さんは立ち去りません。腹を立てた衛門三郎は竹ほうきでお坊さんの椀をたたき落とし、椀は8つに割れて飛び散ってしまいました。その翌日から衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。衛門三郎が悲しみにくれていると、ある夜旅のお坊さんが現れて衛門三郎の夢枕に現れて「自分の非を悔いて情け深い人になりなさい」と告げます。
夢から覚めた衛門三郎は自分が強欲であったことを悔いてその旅僧は弘法大師だと気が付いたのでした。

衛門三郎は弘法大師に許してもらおうと、弘法大師を追って四国の道を東から回ったり、西か回ったり歩きますが大師に出会うことができません。そして四国を二十数回まわったところで阿波の第12番札所焼山寺で倒れてしまいました。その時に衛門三郎の前に弘法大師が現れ「ここでおまえの罪も消える。最後に何か望みはないか」と声をかけました。
衛門三郎は「伊道後の河野一族の世継ぎとして生まれ変わらせてください。人々のために尽くしたいのです」と答えました。すると弘法大師は「衛門三郎再来」と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせました。

それから数年後、伊予の国道後湯の領主「河野家」に男の子が生まれました。ところがその子は幾日経っても左手を握ったままで開きません。道後の安養寺の住職に祈願してもらいうと「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げがあり、そのお告げのとおりにすると男の手が開いて中から“衛門三郎再来” と書かれた小石がころがり落ちました。男の子は衛門三郎の生まれ変わりだったのです。この小石は安養寺に納められ安養寺は「石手寺」に名前を改めたのだいうことです。

石手寺は「衛門三郎」の生まれ変わり伝説の「石」を本尊としています。徳島の焼山寺下り遍路道に「衛門三郎」が倒れたという場所があり、そこに衛門三郎と弘法大師の像がありました。その時以来「衛門三郎」の名前は忘れていましたが、松山市手前の「衛門三郎」生地とか生まれ変わりの石手寺では再び「衛門三郎」の話が多くなります。今うるう年ですが、閏年に「逆打ち」すると「順内3回分のご利益がある」という話も衛門三郎の謂れから来ているようです。

今日の宿は道後温泉ユースホステルに取りました。土曜日の道後は宿泊施設が混雑するという話は本当で、遍路地図に乗っている宿泊施設数カ所に電話してようやく確保できた宿です。こういう状況だと条件の良くない宿が残っているものですが、歩き遍路にとって「道後温泉ユースホステル」は大変好ましい宿だと思いました。まず支配人さんが遍路に理解があることは有難いことでした。

雨で濡れた衣類・靴・靴下を乾かすには部屋のクーラーと扇風機が大活躍しました。ポンチョの乾かしてホッチキスを借りて修理し直しました。多くの滞在客は道後温泉に行くので宿にある小さな浴室は全くと言っていいほど客のりようはありません。ゆっくり歩きの疲れを癒すことができました。三坂峠下りの坂道下りで足の指先に血豆ができてしまいました。明日以降の歩行の障害にならないようにテーピングで保護しました。結局道後温泉に来たものの宿からは一歩も出ずに部屋でゆっくり過ごしました。

○民宿「桃李庵」出発(06:30)
○第46番浄瑠璃寺 14.5Km
○第47番八坂寺   0.9Km
○第48番西林寺   4.5Km
○第49番浄土寺   3.2Km
○第50番繁多寺   1.7Km

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10月22日(土)
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