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Kenの日記
by Ken
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■遍路十四日目(第29番国分寺から第32番禅師峰時まで)
雨の影響で道にも迷いました。遍路地図該当ページのコピーを持ち歩いているのですが、それが雨に濡れてしまって使えない状態になってしまい目印も見失って何度か道に迷いました。高知県内の遍路道は徳島県の遍路道に比べて目印の数が少ないようですがこれが迷った原因のひとつです。また高知市内の五大山という山には札所第31番竹林寺と「牧野植物園」が同居しています。遍路の印もあれば植物名を記した名札もぶらさがっています。そして台風の暴風雨の中ですから、できるだけ後戻りしたくないという気持ちが優先したり、五台山で植物の名札があったので安心して進みすぎてしまったのだと思います。ガソリンスタンド、一般の民家の方に道を聞いて何とか遍路道に戻ることができましたし、五台山では牧野植物園で台風の最中に作業されていた方に道を聞いて編路道に戻ることが出来ました。結果的に距離的にはそれほどロスはしなかったのですが気分的に大分不安でした。

今日の遍路の道すがらどうしても寄りたかった場所が二つありました。それらに寄りながら午後4時30分前には宿に着いたのですからびしょ濡れになりながら大変頑張ったと思います。その一つは「仙台伊達騒動」の主役のひとり「伊達兵分」の墓です。伊達騒動で幕府から藩主後見人としての責任を問われた伊達兵部は仙台伊達藩から「土佐藩預かり」となって高知で亡くなったのでした。その墓が五台山中腹にありました。この墓を捜し求めたことも道に迷った原因の一つではありました。

もうひとつは「武市半平太」の生家・墓です。武市半平太は幕末土佐藩の土佐勤王党の親玉です。土佐藩からは坂本竜馬・中岡新太郎等の幕末の英雄が生まれていますが、武市半平太は坂本竜馬・中岡新太郎の兄貴分に当たる存在であり、幕末の騒擾を生き延びていれば「西郷・大久保」に並ぶ指導者になっていたとされる人物です。残念ながら藩主の山内容堂と折り合いが悪かったこともあり様々な騒擾の責任を背負って切腹させられました。

武市半平太の生家は山裾にある大きな農家でした。家の裏山には武市家の墓があり、半平太と妻「富」の墓が並んで立っていました。家の方が武市家とは別の方の所有となっていますが入口の門から中を覗くことが出来ました。昔の姿がそのまま残っていました。

今日の宿は「国民宿舎桂浜荘」です。龍馬像で有名な「桂浜」に近く隣には坂本龍馬記念館があります。残念ながら夕方到着し朝早く出発するので龍馬記念館は見学することはできませんでした。「桂浜荘」は遍路宿というよりは観光客用の宿で遍路客用に「遍路パック」という安い料金設定コースがあります。お風呂も料理も同じですが料金だけディスカウントされているようで非常に有難いです。この宿のサービス精神は特筆にあたいするでしょう。非常に細かいところまで配慮されているのです。一例を上げると空の電気ポットと茶器が備えられているのですが、水道からポットに水を汲むための特別な形をしたコップが備えられていました。各部屋に備えられたお尻粗い装置付き便器は非常に嬉しいものでした。晩御飯・朝御飯も非常に美味しかったです。

台風の暴風雨中長時間歩いたので足に「肉刺」が何カ所かできてしまいました。靴の中で水がジャブジャブ言うくらい水浸し状態だったのでふやけた足の裏の皮には酷な歩きでした。宿の部屋で教科書通り「肉刺」を潰して水を出し消毒した後に保護のためにテーピングしました。しかし「肉刺」の痛みはかなりな物なので明日が心配です。

05月12日(火)
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