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活字中毒R。
by じっぽ
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■「野球のルールを何一つ知らなかった」歴史に残る野球マンガの作者
『サンデーとマガジン〜創刊と死闘の15年』(大野茂著・光文社新書)より。

(「時期を同じくして(1959年3月17日)創刊された、「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)のライバル関係を描いた新書の一部です。「週刊少年マガジン」の看板となった『巨人の星』の誕生秘話)

【1965年の年末に、梶原(一騎)からマガジンへ『巨人の星』第1回の原作(文字)原稿が届いた。話は、戦前の巨人軍で幻の三塁手と言われた星一徹が、うらぶれた貧乏長屋で息子の飛雄馬と暮らしているところから始まる。父のスパルタ教育で、小学生にして驚異的な野球技術を身につけた飛雄馬が大騒動を巻き起こす……第1回目から息をもつかせぬ波乱万丈の筋立てである。
 その文字原稿を読んだ上司の椎橋(しいはし)久局長がこんなことを訊いてきた。
「ときに、星一徹というのは何年ごろにジャイアンツにいた選手だったかな?」
 創作でありながら、まるでノン・フィクションと錯覚してしまうような華麗な筆運びにマガジン編集部は「これはイケる!」と全員が思ったという。
 ではその傑作をいったい誰に作画してもらうのか。
 マガジン編集部からは数多の候補者が提案されたが、そのなかから選ばれたのが、川崎のぼる(1941年〜)であった。さいとう・たかをのアシスタントを経て、少年サンデーで西部劇の劇画を連載していた。精緻な人物描写は、ヒューマンドラマ(ちなみに飛雄馬はヒューマンから名付けられた)にうってつけと思われた。

 だが、川崎の仕事場を訪れた内田と宮原を待っていたのは、またも意外な反応だった。
 梶原の原稿をしばらくの間じっと読んでいた川崎は、その原稿を黙って、すっと内田に返して寄こした。そして、腹の底から搾り出すような声で、
「残念ながら、この仕事はお引き受けできません」
「なぜですか。連載しているサンデーへの義理立てがあるからですか」
「梶原先生の原作に何か問題でも?」
 内田と宮原の問いに、川崎は、しばらくどう答えていいか戸惑っているようだった。
「いいえ、物語の始まりを読んだだけでも、これほど素晴らしい作品に僕は出会ったことがありません」
「では、なぜお断りされるのですか」
「実は……私はとても貧しく育ち、小さな頃から働いていたので、友達と遊んだ記憶がありません。原っぱで皆が野球をやっていても、遠くから眺めるだけでした。だから野球のルールは何一つ知らないのです。もしこれが、野球以外のテーマであれば……こんな傑作をみすみす見逃すなんて、描き手として千載一遇のチャンスを失う心境ですが……」
 途切れ途切れに、出てくる言葉には、悔恨の念が溢れていた。
「ちばてつやさんが、『ちかいの魔球』を描いた時も、ちばさんは全然野球のことを知らなかったんですよ。ちばさんは、実際にキャッチボールをしながら、一つ一つ野球のことを学んで、あの名作が出来たのです。今度も、我々が川崎さんに野球のことを最初から手ほどきします」
「ちばさんと違って、僕にはまったく自信がありません」
 押し問答の末、内田たちはとにかく原作を川崎に預けて、すぐその足で交渉の途中経過を梶原に報告しに行った。当然ながら、梶原は不機嫌になった。
「野球のことを知らないのでは話にならない。誰か別の人はいないのですか」
「川崎さんしか適任者は考えられません。もうしばらく時間を下さい」
 その後もマガジンお得意の粘り強い交渉で、数か月の後にやっと川崎の内諾をとりつけることができた。
 そこから、ストライクとボール、アウトとセーフの違い……野球のルールを宮原が川崎に教える日々が続いた。

 そして、1966(昭和41)年4月、予定より3か月遅れで『巨人の星』の連載が始まった。
 ストーリーコンセプトはもちろんであるが、この作品が画期的であったのは、表現面での斬新さであった。今ではショックの代名詞でもある「がーん」という擬音表現は、このとき川崎がマンガ史上初めて使用したものである。主人公・飛雄馬の顔の上にかぶさる「がーん」の文字に梶原一騎が感心し、逆に今度は原作の文字原稿にそれを多用するようになった。

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06月04日(木)
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