ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■『ゲームボーイ』を変えた、任天堂・山内溥社長の「二つの逸話」
『日本を変えた10大ゲーム機』(多根清史著・ソフトバンク新書)より。
【1989年に発売されたゲームボーイの名前に、ファミコンのように<コンピュータ>という文字が含まれなかったのは象徴的だ。この新型ゲーム機は、<おもちゃ>であることに徹していた。おもちゃとは、子どもや大人を問わず、誰もが一目見ればすぐに遊べて、乱暴に扱っても壊れないものだ。「分かりやすさ」と「堅牢性」では、並の家庭用ゲーム機は足下にも及ばない。
そして任天堂には、長年の経験に裏打ちされた「おもちゃを見るプロ」かつ「ゲームの素人」で、しかもゲームボーイの企画をちゃぶ台返しできる人物が一人いた。当時の社長・山内溥その人である。
山内にまつわる二つの逸話は、どちらもすさまじい。一つは、ゲームボーイの試作機をプレイしてみたときのエピソードだ。当初の試作品は、ゲーム&ウォッチと同じ、斜めから見やすい「TN液晶」を採用していた。これは「電卓をのぞき込む」姿勢に適しており、サイズの小さいゲーム&ウォッチでは特に問題とされなかった。
ところが、山内はゲームボーイをつかむなり、おもむろに正面にかまえた。
「何だこれ。見えへんやないか」
ゲームボーイは本体サイズがかなり大きくなっているため、自然とバランスのいい真正面か上部からつかんで見ることになる。予備知識のない山内は、初めてのおもちゃを手にする子どものように、ゲーム機に面と向かったのだ。
「どうするんや、これ。こんな見えへんの売れへんぞ。もう、売るのやめや」
自力で液晶を製造できない任天堂は、シャープと協力して開発にあたっていた。すでに「TN液晶でいける」という前提のもとに、40億円をかけて製造工場が建設されていたのだ。粛々と既成事実が積み上がる中で、“リセットボタンを押せる”のは山内のほかにいない。
そこで、急遽「STN」というタイプの液晶に変更されたが、結果としてこれが吉と出た。たしかに表示スピードが遅く、動きの激しいゲームでは残像が発生したりと欠点はあったが、ソフトの作り方によって対応できなくはない。STN液晶は明るい部分と暗い部分のコントラストが利いていて、正面からも見やすく、日光のある屋外でもゲーム画面が確認できる。「遊ぶ場所を選ばない」携帯ゲーム機としては、いい落としどころだ。
もう一つの逸話でも、山内はまるで子どものようにふるまった。開発陣から渡された最終デモ版の試作機を、いきなりカーペットの敷かれた床に投げ出したのだ。ゲーム機は子どもが買うものだかあ、乱暴に扱っても壊れては ならない、と社長じきじきに「強度テスト」をしてくれたのだ。
そのかいあって、ゲームボーイは「史上もっとも頑丈なデジタルガジェット」と海外でも定評がある。湾岸戦争のさい、任天堂が“戦時支援”として米軍兵士に提供したゲームボーイのうち1台が空爆を受けた家屋から発見され、表面は焼けただれていたがゲームは問題なく動いた、と驚きのニュースが流れたくらいだ。任天堂の社長と空爆、二つの試練に鍛え抜かれたタフガイなのである。】
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僕がゲームボーイにはじめて触れたとき、「これ、けっこう残像が目立って、目が疲れるなあ」と感じたものでした。たしか、そのときに遊んだゲームは『スーパーマリオランド』。
まあ、その違和感は、作り手の工夫もあってあまり意識しなくなっていったのですが、あの液晶は「コスト重視でやむなく選ばざるをえなかった」わけではなくて、「山内社長の意向で選ばれたもの」だったんですね。
たしかに、その後のゲームボーイの大ヒットを考えると、山内社長がTN液晶のゲームボーイに「ダメ出し」をしたことは「正解」だと思われます。
当時の開発陣は、「携帯ゲーム機」としてゲームボーイを開発しながらも、「まあ、それでも外で、陽のあたる場所で遊ばれる機会はそんなにないはず」だと考えていたようです。「天気のいい日に、わざわざ外で『テレビゲーム』をやる子どもは少ないだろう」というのが、あの頃の「常識」でしたし。
そして、「悪条件のもとでの見やすさ」よりも「想定された条件(屋内や比較的暗い場所)での画面の美しさ」を意識してTN液晶を選んだのは、当然の判断だったはず。
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10月13日(月)
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