ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■花束を贈ってくれた小さな女の子への、某総理の「信じられないお返し」
『総理の辞め方』(本田雅俊著・PHP新書)より。

(この本の中で紹介されている、4人の総理大臣のエピソード)

【幼年時代から苦労を重ねたこともあり、Aは人情家であった。若い者が訪ねてくると、Aは決まって「メシを食ったか」と尋ねる習慣があった。少年・青年時代、満腹感を抱くことが少なかったAだからこその、温もりのある言葉である。Aが人望を集め、高い人気を誇ったのは、その根拠に血の通った人間臭さがあったからであろう。
 Aの人身掌握術は天性のものだったかもしれないが、苦労によって磨きもかけられた。一方、Aの官僚操縦術は、昭和20年代に数々の議員立法を手がけたことによって習得されたものだといえる。昭和30年の国会法改正前までは、議員は1人でも法案を提出することができ、その数はきわめて多かったが、実際に成立したものは少ない。しかし、Aはみずから政策の勉強を重ねて低学歴のハンディキャップを克服し、先輩・同僚議員や官僚への根回しを行いながら、道路三法など実に30本以上の法律を成立させている。
 もちろん、人心を掌握するため、人一倍、カネも使った。正確にいえば、苦労人のAにとり、カネこそみずからの気持ちを表現する数少ない手段のひとつだったのかもしれない。首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。周囲は驚いたが、それが「A」であった。「政治は数であり、数は力、数はカネ」との台詞からも、「A」が透けて見える。】


【その反面、Bは人望を欠いたともいわれている。竹下は、「怒る、威張る、すねるがなければ、とっくに総理になっている」と分析したことがある。年上の議員であろうが、人前で一喝することもあった。頭脳が明晰であることは誰もが認めたが、鋭利すぎたことが玉に瑕で災いしたのかもしれない。
 しばしばBには、孤高や孤独の形容が用いられた。確かに大勢の宴席は好まなかったし、群れをなして行動することも苦手とした。登山やプラモデル製作、写真撮影を趣味としたのも、独りが好きだったからかもしれない。さらに、記者の質問に対する答えでも、嫌みの一つや二つが入り、相手を閉口させることが珍しくなかった。
 しかし、見かけとは裏腹に、Bはシャイな人情家でもあった。突っ張ったり、強がったりする反面、寂しがり屋で涙もろかった。生後間もなく実母を亡くし、継母に育てられたからかもしれない。首相になってからも、執務室の扉を閉めることを嫌い、頻繁に秘書官室に顔を見せたのも、実は寂しがり屋の一面を持っていたからである。同僚議員の母親の葬儀に際し、気持ちを込めた直筆の弔辞を送ることなどは、テレビ画面に映し出される姿からは想像しがたかった。】


【しばしばCは永田町で「変人」といわれてきたし、人付き合いの悪さでは定評もあった。宴会にはほとんど顔を出さず、自宅でオペラなどを鑑賞することを好んだ。贈答文化の永田町にいながら、中元や歳暮、土産はすべて拒絶し、みずから人に贈ることもなかった。外遊の土産どころか、同僚の女性議員からのバレンタイン・チョコレートでさえ謝絶した。若干度を越していたかもしれないが、感覚からいえば、「永田町の常識」からかけ離れていた。さらにいえば、「感性が鈍る」との理由で、他人との議論も嫌った。記者からの質問にも、前置きを抜きにした答えばかりで、血液型がA型とは思えない言動が目立った。】


【そもそもDは首相を目指してこなかったし、その準備も皆無であった。首相就任を求められたときも、「どこの国の話じゃ」と一笑に付した。首相になると聞いたとき、病身のヨシヱ夫人は同情したという。
 Dがようやく政界から引退するのは平成12年のことである。平成17年には大分市内で交通事故を起こすが、元首相がみずから運転していることを知った国民は驚いた。首相になる前も、そしてなってからも、Dは紛れもなく市井の人なのである。ちなみに、阪神・淡路大震災のとき、ヨシヱ夫人はDにも内緒で被災地に赴き、一般の人たちに交じって黙々とボランティア活動に従事していたという。ある意味では似たもの夫婦なのかもしれない。】

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10月11日(土)
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