ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■新聞記事の評価基準「アフガニスタン・ルール」
 ごく一般的な「ニュースの受け手」である僕が、この文章を読む前に、もし、「アフガニスタンの戦争に関する報道」と「地元の消防署の不正疑惑」の2つのニュースについて、「どちらが価値があると思う?」と問われたとしたら、まちがいなく、「そんなの、アフガニスタンの戦争のことに決まっているじゃないか。『世界レベルの問題』だし、これを報道しているジャーナリストたちだって、命がけでやっているんだから」と答えていたと思います。地元のニュースのほうに「個人的な興味」があったとしても、それと「客観的にみたニュースとしての価値」は別物だと考えたはずです。

 僕がこの「アフガニスタン・ルール」の話を読んでいて驚いたのは、アメリカのジャーナリズムの世界には、こういう2つのニュースの価値を真剣に「比較」する姿勢がある、ということでした。日本だったら、「まあ、『みんなちがって、みんないい』、じゃないか」というようなお茶の濁し方をされて、次の話題に移ってしまいそうですよねこれ。内心では、「そんなの、世界的なニュースのほうが『偉い』に決まっているじゃないか」と思いながら。

 そして、この話を読んでいて痛切に感じるのは、「アメリカでは、『ニュースを伝えること』だけではなくて、そのニュースが『受け手にとって意味があること』『受け手によって検証されること』もニュースの価値に含まれると考えられている」ということです。
 いや、「ニューヨーク・タイムズで報道されること」には、やはり世界的な影響はあると思うのですよ、彼ら自身は「アフガニスタンの現場の人たちには、読まれないし、反響もない」と謙遜していたとしても。

 もちろん、これが報道の現場の「本音」かどうかは僕にはわかりませんし、実際は、それでも「世界を飛び回るジャーナリスト」のほうに憧れる人が多いのだろうな、とは思います。この「ルール」の存在理由も、こういう「建前」をつくることによって、地元で地道に取材している記者たちのモチベーションを高めたい、という意図だってありそうです。
 
 それでも、これは「受け手の存在を重視した報道」において非常に大事なことですし、ニュースの受け手の側にとっても、この「アフガニスタン・ルール」は、知っておくべき考え方であることはまちがいありません。
 受け手側からみると、「海外の大きなニュースというのは、そのスケールの大きさだけで圧倒されてしまいがちだけれど、嘘や偏見が含まれやすく、それが検証される機会も少ない」のです。そして、「取材対象に対しても厳しい記事になる傾向がある」。

 これは、マスコミだけではなく、ブログにもあてはまる「ルール」です。
 僕も書く側として、「自分から遠い人ほど、厳しいことを書きやすい」という実感はあるんですよね。
 匿名(ハンドルネーム)で書いているとはいえ、日本の総理大臣の悪口は書けても、職場の同僚の悪口は書きにくい。中国政府は批判できても、地元の町内会の運営や会社の勤務状況については批判しにくい。
 まあ、ブログの場合は、あんまり身内の悪口ばっかり書いても、読む側も何のことだかわからないし、不快になるだけなのも事実なんですけどね。
 

08月16日(土)
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