ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■押井守監督が語る、「『うる星やつら』の友人関係」
『凡人として生きるということ』(押井守著・幻冬舎新書)より。

【では、友人と仕事仲間の違いとは何か。仕事仲間とは、ともに仕事をする仲間なのだから、仕事上の自分の可能性を高めてくれる相手ということになる。いくら監督がいばっても、スタッフがいなければ映画は完成しない。つまり、僕にとっての仕事仲間であるスタッフのおかげで、僕は映画監督を名乗っていられる。
 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』では、若い石井明彦プロデューサーと一緒に作品を作り上げてきた。彼と僕は親子ほども年が離れているが、それでも仕事仲間である以上、年齢の差はまったく気にならない。始終一緒にいて映画のことを語り合い、何十時間、何百時間と話し合っているが、彼は友人ではない。信頼できる仕事仲間であって、仕事以外で付き合う気は僕にはないし、彼にもその気はないはずだ。
 僕にとって彼は自分の仕事で有用だから付き合っているのであって、彼にとっての僕もそのような人間なのである。このように、お互いが相手を頼りにしているという関係が成り立たなければ、仕事上のパートナーとは成り得ない。だから、相手との関わりをこれほど実感できるコミュニケーション手段は、仕事のほかには僕は見つけられない。
 人間関係を以上のように考察すると、次の結論を得ることができる。互いに利用しあう関係が仕事仲間であって、「損得抜きで付き合う」といった関係が友人同士の付き合いである、ということだ。
 だが、僕に言わせてもらえば、損得抜きで付き合うことは、それほど立派で大切なことなのだろうか、ということだ。
 もちろん、損得というのは、何も金銭のことばかりを言っているのではない、生きているという充実感を得ることも含めて、損得である。僕と石井プロデューサーは、1本の映画を一緒に作って、その映画を素晴らしいものにして、ある価値を新たに創出したいと、同じ夢を抱いているわけだ、レーニンとトロツキーが共闘したのと同じだ。
 新しい価値を生み出すという利害が一致したから付き合っている。もちろんその結果、映画はヒットすれば、お金も儲かるわけだが、別の章でも述べた通り、それが第一の目的ではない。
 僕らは確かに損得ありで付き合っている。こいつと付き合ったら損だ、という人間を仕事のパートナーには選ばない。しかしそれが、損得抜きの友人関係よりも、価値のない関係だと誰が断じることができようか。
 そうやって突き詰めていけば、本当に損得抜きで付き合える友人関係というものが、はたして本当に存在するのかどうかも疑わしくなってくる。恋人にしても配偶者にしても、そこにあるのは無償の愛ばかりではなく、大方はやはり損得の計算はあるだろう。
 動物と人間の関係にしても、「えさをくれる」「癒してくれる」というギブ・アンド・テークの関係が成り立っていると言えなくもない。「こいつだけは親友で、損得抜きで付き合える」という相手がいる人は、まあ確かに幸せだが、本当にその人と損得を考えずに付き合っていると言えるのか。
「何かあったら助けてくれる」とか、「寂しい時はいつでも会ってくれる」とか、その程度の計算や打算は当然働いているからこそ成立する関係もあるはずだ。
 それもないというのなら、友人が手ひどい裏切り行為をしたとしても、笑って許せるくらいの気持ちになれない限りは、「損得はない」と言い切れないのではないだろうか。
 だから僕は、本当に損得のない相手と会うと、話すことすらなくなってしまう。昔の同級生に会っても、「お互い年取ったもんだ」「何だ、お前のその腹」といった会話を交わせば、もう話すこともない。

 ところが、漫画やアニメの世界はもう、友情、友情のオンパレードだ。ハリウッド映画にしても同じである。確かにその中では、損得抜きの友情が描かれる。どんなにひどい目に遭わされても、「お前はオレの大事な友達だ」と主人公が彼や彼女を助ける。美しい主人公たちは、時に自分の命を狙う相手にさえ、友情を発揮することがある。

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08月14日(木)
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