ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■「人がひと息で読めるのは200字」という時代
 薄々、気づいてはいたものの、文字の世界で何かが変わっている、ということを私は強く感じ、ちょっとした衝撃を受けた。】

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 ちょうど5年前、この『活字中毒R。』で、荒川洋冶さんが書かれたこんな文章を紹介したことがありました。


以下は、「日記をつける」(荒川洋治著・岩波アクティブ新書)より。

【作品の長さについては、ぼくは以前から次のような考えをもっている。四〇〇字詰原稿用紙で「何枚」というとき、次のようなことをこころがけるのだ。
1枚→どう書いても、何も書けない。(週刊誌の一口書評など)
2枚→何も書けないつもりで書くといいものが書ける。(新聞の書評など)
3枚→一話しか入らないのですっきり。起承転結で書く。二枚半あたりで疲れが出るので休憩をとる。(短いエッセイなど)
4枚→一話ではもたないので、終わり近くにもうひとつ話を添える。(エッセイなど)
5枚→読む気になった読者は、全文読む枚数。見開きで組まれることが多く、作品の内容が一望できるので、内容がなかったりしたら、はずかしい。原稿に内容があるときはぴったりだが、内容がないときは書かないほうがよい。「書くべきか、書かないべきか」が五枚。
6枚→読者をひっぱるには、いくつかの転調と、何度かの休息が必要(同前)。
7枚→短編小説のような長さである。ひとつの世界をつくるので、いくつかの視点が必要。(総合誌のエッセイ、論文など)

この7枚以上になると、書くほうもつらいが読者もつらい。読者は読んだ後に「読まなければよかった」と思うことも多い。2、3枚のものなら、かける迷惑は知れているが、7枚ともなると「責任」が発生する、いわば社会的なものになるのである。7枚をこえて、たとえば10枚以上にもなると、読者は「飛ばし読み」をするから、意外に書くのは楽である。読者を意識しないほうが、むしろいいくらいだ。】

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 香山さんや荒川さんは、書き手の立場で「文書の長さ」についての意見を述べられているのですが、この2つを読み比べてみると、この5年間だけでも、読み手が「読みきれる文章の長さ」というのは、どんどん短くなってきているのではないか、という気がしてきます。
 いや、あらためてそう言われてみると、僕自身だって、ネットをはじめた直後に比べたら、確実に「長文を最後まで読む気力」は確実に落ちてしまっています。どんなに内容に興味がある文章でも、「長い」あるいは「長そう」というだけで、読む意欲が失せてしまうんですよね。これも年を重ねて忍耐力が落ちたのかな、とも思っていたのですけど、どうもそう感じているのは、僕ひとりではないみたい。

 そもそも、ここで取り上げられている口紅などに関しては「この色の口紅が流行る理由」というのが本当にあるのかどうかさえ疑問なのですが、そういう「流行」以外の部分でも「理由なんかどうでもいいから、さっさと結論だけ教えて」という人が増えてきているのかもしれません。考えてみれば、細木和子先生や江原啓之さんは「発言の根拠」をほとんど語られていないんですよね。
 それは「考える」ものではなくて「感じる」ものなのだと彼らは言うのかもしれませんが、そんなプロセスも根拠もあやふやなものを信じて、「自分はどうすればいいのか」という結論だけを鵜呑みにしている人は、けっして少なくないようです。これって、すごく怖いことのような気がしませんか?

 僕も”ひと息は200字”には驚いたのですが、この編集者たちの言葉からすれば、この”200字”というのは、もはや「出版界の常識」になってしまっているみたいです。世の中の人々は、僕の「劣化」以上のスピードで、「長文が読めなくなっている」のかもしれません。そういえば、最近の文学賞受賞作も、ひとつの段落が短くて、どんどん場面が変わっていくものが多いような印象がありますし。
 なんだかこれって、「読者のレベルが下がった」ってバカにされているような気もします。その一方で、売れているのは「読者のレベルに合わせたもの」だというのも事実なのでしょう。

 しかし、みんな本当にこの文章をここまで「読み切れて」いるのかな?


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08月22日(水)
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