ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6782,閑話小題 〜「美」を感じる心が魂 −2

       <文芸春秋 令和元年6月特別号/新連載 第一回 「醜」>

    * 玉三郎かく語りき ―2

◉ <…だから、「何かに憧れたり、ひととき、我を忘れる時間を作ろうとする。
  それによって、醜い自分や居心地の悪さから飛躍できる>
 芸術家は、己の醜さからの解放を求め、結果的に美を生み出すことになる。
「憧れる」の語源は、「あくがる」だ。「あく」とは、場所を指し、「かる
(がる)は「離れる」を意味する。つまり、ある場所から「離れる」を意味する。
肉体は、その場に止まっても、想念は飛躍する。そんな想いが、憧れを醸成する。
玉三郎の舞踊は、立ち姿から一挙手、一投足に魂が籠っている。肉体のみならず、
衣裳の隅々までが、生を得たようにその場を支配する。
それは、やがて、劇場をのみ込み、その時空をまるごと無我の境地に誘う。 
その舞踊も、また憧れにある。

◉ <人間は、常に何かに縛られている。きちんと座っていなくてはならないなど
 の日常の小さなことはもちろん、社会のしがらみにもがくとか、日本という国
から抜出せないとか。それは肉体的、現実的な縛り。本当は魂は自由なはずですが、
日々の拘束によって魂も縛られいく。そこから、一瞬飛躍するというか、飛ぶ、
あるいは飛ぶことによって解放される。舞踊とは、ある種の引力からの解放です。>

◉ <頭脳明晰の優等生が美を語る時は、とても理論的で多弁だ。その上、何でも
 褒めちぎる。まるで自らがその現象に美のお墨付きを与えるかのようだ。
そして、彼らが語れば語るほど、聞く側には美が直感できなくなる。
おそらく、美というものを類型的で相対的に理解してしまうからだ。
だが、美は絶対的なものであり、直感的なものだ。 だから玉三郎は、
「魂でしか感じ取れない」と断言する。
<魂がなくなる時代が来ていると思います。心のあり方を情報化あるいは
 数値化してしまい、醜いも、美しいも、見分けがつかない社会になって
 しまったからです」

それは美の世界だけに限らないのではないか。21世紀人類は、非人間的、すなわち
自然の中に存在する生き物であることを自覚できない社会にひたすら進んでいる。
インターネット、AI,自動運転など… 利便性と万能なる科学に依存し、能動的に
生きることを放棄している。美を魂で感じると言えば笑われる時がくるのだろうか。
… 「現代社会はh情報があふれ、表層的になってしまった。なのに、情報の本質を
掴めないでいる。なぜなら『実』を見てないから。でも、そんなことさえ気にしなく
なった」 …魂が希薄になる時代の到来―― それは、絶望の時代の到来でしょうか。
 

▼ 何度も、自己超越について書いてきた。美を感じとる直感と酷似する。
 その魂の本質は、自己超越である。フランクルは、死の収容所で、その醜く、
居たたまれない醜い環境の中で、人間が持ちうる「愛の実を見つめた。
 ―フランクルのー自己超越のための3つの意味(価値)ーである。
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで得られる価値・意味=
  極限状況の中での尊厳ある態度。 <よく働き、よく遊び、よく学ぶこと>
 ー人生には発見されるべき価値や意味があるー
何でまた、<玉三郎、かくかたりき> にフランクルか? 死と生の境目の劣悪の
環境で「人間の愛の美」と、「究極の精神の飛躍」を見出していたのである。
人間は本来、自由のはず。日々の拘束によって縛られた魂が、トリップすることで
美を感じとる。美と醜の混濁の中でこそ、実感できる跳躍。人生の本質である。

――――
2003/09/20
《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。
そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生丁度まがり角であったためであろう。

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