ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6781,閑話小題 〜「美」を感じる心が『魂』 −1
<文芸春秋 令和元年/6月特別号 新連載 第一回「醜」>
* 玉三郎かく語りき
大自然の絶景に魂がうち震えた経験を何十回、いや何百回もある。
大自然の絶景に、天空のオーロラに、時に、ふと邂逅した若い女性美に、
我を忘れて魅入ってしまった瞬間、「ああ、この感覚とは何だろう?」と。
それは、その人により違うが、それは生物の本能に備わっているものか。
脳科学の用語に、クオリアという「主観的体験が伴う質感」の言葉がある。
もっと簡単に言うと、今まさに、私の眼に映っている「赤」を赤と感じること。
「美」を感じとる質感は、その最たるもの。
幼児期に親の責任として、芸事や、絵画や、芸術のシャワーを浴びせる義務
がある。 その意味は、このクオリアのベースを構築しておくということ。
「美」を感じる心は、逆に「醜」なる人間が感じる原罪のようなものと…
以下の文章は、著者・真山仁から抜粋した内容。
――
美の達人と誰も認める認める歌舞伎の坂東玉三郎に、その「醜」について
尋ねた時に返ってきた言葉が…
◉ < 醜さというのは、人間だけが感じる原罪のようなもの。例えば、宇宙や
自然界に、醜さというものは存在しない。あるがままに、そこにあるだけ。
それを美しい、醜いというのは人間だけ。」>
< さらに、残酷なのは、地球上の生物の中で人間だけが醜い。>
夕陽や、森の中の木漏れ木などの、自然現象を美しいと感じ、得意になる。
しかし、その歓びは、自らが醜い、美しいと自覚するがゆえというのは、確かに
残酷の話だ。 21世紀に入って、美の真髄に感じる人が少なくなったと。
玉三郎は嘆く。
◉ < 美を感じる器は、私は魂だと思います。自らの醜さを自覚した上に、
魂のあり方で美を感じとる必要があります。ところが最近では付和雷同して
いるだけに見える。つまり理解した気になっている。
「インスタバエ」で美を誇る人たちは、その好例ではないだろうか。
ちょっとおしゃれな場を切り取って、それを他者に自慢するため発信する。
美とは現象の一部分を切り取り誇るものではない。
人間の根源的な部分=魂で感じとってこそ、美は輝きを放つ。
美を追求する人は、己の醜さを自覚している。
――
▼ 51歳時に、いや40歳半ばに、何やら人生の折返しの時節を実感した。
ホモ・ハーベン(働き人間)から、ホモ・ルーベン(遊び人間)への転換。
これは、何度も書いてきたので省くが、その一つが、秘・異郷ツアーを通して、
今までの生き方を変えてしまうこと。 その行先で、感動することで、小さく
凝り固まった、それまでの人生を逆照射すること、それは、玉三郎の舞踏による
解放と同じ経験であった。魂の解放である。魂の解放といえば、個々の死も然り。
その前に、65歳時の会社清算が同じ。 これは現に経験して解ったこと。
何かの引力から素っ飛ぶ感覚。 そこに、何も解っちゃいない、下衆の何とか!
こちとら、娑婆の柵から、素っ飛び、飛躍しているのに、柵の中の住人の何とも。
それらは、創造価値、体験価値を経過した後に、態度価値に至っていたから
平然?と受けられたこともある。 実はよれよれ? あと講釈だから、まあ。
岩盤がなければ、やはり、厳しい事態。 何とか、こころ安らかに居る。
最後は自分がつくり上げた魂の岩盤。 それは他者を愛する心根ですか。
人間の本質は『醜』ですか。ならば、他者も、自分も許せる! ったく。
〜で、これも偶然で、文脈として丁度良いのが続く〜 …としても不思議。
・・・・・・
6417,読書日記 〜『60歳からの人生を楽しむ技術』 ー1
2018年10月08日(月)
『60歳からの人生を楽しむ技術』渡部昇一著
* 人生を楽しむコツとは…
51歳で、痴呆症だった母親を5年半の介護の後、看おくり、さて私の人生を
如何に生きようか自問自答したとき、<30年分の余生を、還暦まで圧縮する、
3倍濃厚に生きるべし>との内なる声が聞こえてきた。何回も書いてきたが、
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10月08日(火)
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