ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6024,明るく死ぬために  〜1、まずは内容紹介から
        『明るく死ぬための哲学』中島義道 (著)
 この春に出たばかりの、中島の本。「どうせ死んでしまう」と、死に対して
異常なほど恐れ慄き、逆に直視して、どこまでも堀下げている。死のイメージ
は暗く、絶望に満ちている。あれだけ気丈の人が、目先に余命を告げられると、
その恐怖に、恐れ慄く。数十年、いや、一生かけて自問自答して、自分自身で
土台を構築をしておくべき問題である。「人間は死なない。なぜなら自分が
死ぬことを見ることができないから」というエピクロスの言葉が実に納得できる。
 成るほど、70歳を過ぎると、後方から前方に回って近づいてくるというが…

  ー内容紹介ー
 私が住んでいる世界、私が見ている世界は「このようにある」のではない。
客観的世界のあり方と、「私がある」というあり方はまったく異なるのだ。
「私がある」とは、私がこの世界には属さないということである。
では私が死ぬ、とは果たしてどういうことなのか?
私が死ぬとき、私は新しい〈いま〉に直面する――。
子どものころから死とは何かを問い続けてきたカント哲学者が、
古希を迎えて改めて大難題に挑んだ哲学的思索。
 はじめに
1章:古希を迎えて
2章:世界は実在しない
3章:不在としての私
4章:私が死ぬということ
  =Amazonビュアーより=
《 中島哲学に最も共感を覚えるのは、それが死を ―とりわけ「私の死」を―
 モティベーションとしている点である。「哲学の最大問題は死である」という
中島の言葉には全く同感であるし、ともすればタブーになりがちな死を真正面
から論じているのは哲学だけであろう。「死がなければ哲学もなかった」と
ショーペンハウアーも言っている。
 一般常識によれば死とは「世界から私が消滅し、私の死後も世界は存続する」
ことを意味する。しかし中島はその残酷さに耐えられなかった。そして二つの
突破口を見出す。
・一つ。世界はそもそも実在しない。よって私が死んでも私は何も失わない。
・もう一つ。私はそもそも実在しない。実在しない私が消滅することに意味はない。
 中島は自分が消滅して世界が存続するよりも、自分の死とともに世界が消滅
する方がまだ救われるというようなことを言っている。しかし自分は全くそうは
思わない。どうせ自分が消滅するなら、むしろ世界は存続してほしいと思う。
そのせいもあるのか「世界は実在しない」という中島の一方の戦略は、それが
正しいか否かは別にして、少くとも自分にとって死の解毒剤とはなりえなかった。
 むしろもう一方の「私は実在しない」という戦略の方が、自分にとっては
はるかに有効だと思われた。もっとも「私は実在しない」という議論自体は、
それほど目新しいものではない。サルトルは対自存在としての私を「無」として
定義したし、永井均の自我論もとどのつまりは<私>を身体や記憶とは無関係な
「世界の原点」として位置づけている。ドーナツの穴はドーナツを食べても
何一つ傷つかない。 しかしながらもう一つ、中島の指摘していない突破口が
あるような気がする。それは「私にとって死は実在しない」というものである。
 死は必ず他人に訪れる。私が死ぬとき、私はもうそこにはいない。エピクロス
が言うように「死があるときわれわれはなく、われわれがあるとき死はない。
よって死とわれわれのあいだにはいかなる関係も成り立たない」。
私と死はあくまでも無関係にとどまる。そもそも私が死ぬことは証明されていない。
未来は常に不確定であり、私と他人はあくまでも別人である。しかるに今まで
死ななかった他人が一人もいないという過去が、私の死という幻想を未来に描き
出す。死の絶対的確実性は、過去と未来の同一視、他人と自分の同一視という、
実は何の根拠もない二つの倒錯に由来する。 その倒錯は、おそらくは言語に
よってもたらされた(この点では中島と一致する)。死は言語というプログラム
において不可避的に発生したバグである。死が誕生した経緯をひもとけば、
それが幻想に過ぎないことが分かるかも知れない。もっとも分かったところで、

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09月11日(月)
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