ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5699,老老介護の現実
* 姉夫婦と従兄弟が老老介護の年齢に
先日の通夜に東京から日帰りでやってきた従兄は、老老介護の真只中。
総武線沿線の葛飾と千葉市近郊に、姉夫婦が三組、父方の親戚が三組が住む。
そのうち姉夫婦の一組と、いとこの二組の連れ三人、4分の1が亡くなっている。
そして残る三組は老老介護の真最中。平均年齢が80歳代に入った老老介護は
日々是戦場状態。長寿が果たして幸せかどうかの問題につき当たる。それでも、
近くに親戚と子供たちが住んでいるのが幸い。連れ合いは、生きているだけ
でも老いの身には支えになる。末っ子のため、従兄弟も含めた自分の数歩先の
モデルの人生、山あり谷ありが垣間見える。 さほど多くない市内の従兄弟や、
義兄が、去年から今年にかけて3人も亡くなった。後は誰が先か後かの問題。
<死ぬまでは生きている、死んだ瞬間から無になるから、自分の死はない。>
と思えば気が楽。現実は、「先に逝ったもの勝ち!」「先に呆けたが勝ち!」
ブログ内検索で『老老介護』を入れたところ、以下の文章があった。
実にシリアスの内容である。
――
2011/09/14
閑話小題 〜老老介護
* 老老介護
先日、近くのチャンコ鍋チェーン店に久々に食事に行ったところ、
案内され小座敷の隣に80歳は超えている老夫婦の先客がいた。
少し妙な直感がしたが、別に気にはとめてなかった。しかし私たちが入店
した時には食事が終わっていたのに、私たちが帰る直前まで、そのまま御茶を
飲みながら周りの客の話を聞いている雰囲気が伝わってきた。それは別に問題
ないが、家内がセルフ・サービスのコーヒーを取りに行ったところ、帰りかけで
入り口にいた御婆さんが、家内に「足が痛くて歩けないんだけど、どうしたら
よいですか?」と話しかけてきたので、家内は戸惑い「私には、どうにもなら
ないんで、店の人に御願いしたらどうですか」と、少し冷たく答えたという。
連れもいるのに見知らずの人に訴えること自体が変で、明らかに痴呆症が半分
入っている風とか。私も腰痛を持っているので、その酷いときの辛さを痛感する
ので(痴呆が入ってなくとも)誰彼なく言いたいのも分かる・・・
長生きは有難いが、そこに精神的、肉体的苦痛の代償を自然は与える。老いた
だけ、無念が増す、ということか。 本気で「来年は存在ない」という思いで、
一日一日を生きる時節になってきた。あの人は誰かに愚痴を聞いて欲しかった?
のか。長生きはしたいが、老いたくない。この矛盾が老いの問題になってくる。
――
2015/05/17
人生相談という気晴らし! 〜F
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
さすがの個人主義の哲学者も、老老介護の相談には歯切れが悪い。
介護の世界は複雑で、根深い。極限の場面で、真実を知ったところで、
せめて、気晴らしになるぐらい。最期の最期は、宗教に頼るしかない?
≪ Q: 〜老老介護から人の〈生〉と〈制度〉を問う〜
私は七十四歳の女性。以前の「死ぬ作法」の記事を読み考えるところが多く、
質問させていただきます。私は現在、九十五歳の母親の介護をしております。
昔であれば一番上の子供が還暦を迎えるころには親は天に旅立ってゆくもの
でしたが、医療の進歩もあり、寝たきりであっても延命治療が続いております。
世間では後期高齢者医療制度が問題になっていますが、むしろ末期の医療現場を
考えていただきたいと思っています。人が生きるとはどういうことであるのか、
死に近い位置から医療をはじめ生きるということを見直すことが必要ではないか
と思っております。哲学のご見地から、寝たきりとなった高齢者の生、死について
何かご示唆いただきたくお願いします。ちなみに私の兄弟三人は皆、病に倒れ
入院生活を送っています。私が倒れたら、どうすればいいものか不安で一杯です。
A: 〜われわれは「生きている」ことの意味が分からないのです〜
これは大変難しいご質問です。私も大学でここ十年ほど「生命倫理」の講義を
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10月22日(土)
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