ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5578,突然、余命宣告を受けました ー⑦
『あの世へ逝く力』小林玖仁男著
* 死にゆくとき、心は不安から解き放たれる
死に際も不安だが、死期を悟った後の心の葛藤と肉体的苦痛も最重大事。
それまで生きた分の人生を圧縮して生きるというから、生易しくはない。
<もう少し生きたい>のが、万人の願いだが、<もう、いい加減、死にたい>
人も当然いる。「死にたくない」には、人生に遣り残したことがあるため。
充分に人生の元をとった実感があるだけ、救いがあるが、やはり長生きを
しなくては。歳を重ねるたび、『もの、金銭』より、『こと、行蔵』に、そうそう、
移動していたことに安堵する。 〜その辺りより〜
≪ 以前、NHKスペシャルで立花隆思索ドキュメント「臨死体験で死ぬとき心は
どうなるのか」が放映されて話題になりました。死の最先端の研究をしている
世界中の学者を、立花隆が半年も取材してつくった番組で、「人類が答えを追い
求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎。その謎に挑む立花隆の思索の旅」
というものでした。七十三分にわたる難しい内容で、堅い番組にもかかわらず、
視聴率が11パーセントもあったといいます。
番組のあと、立花隆は『文藝春秋』にこう書いています。
<『放送した番組を見ました』とか『面白かったです』という反応はあるのだが、
今回は『有難うございました』と多くの人に言われた。こういう経験は初めて
だった。何故かと言えば、エンディング部分で『死はそれほど恐いことじゃない。
おそらく眠りにつくのと同じくらいの心の平静さをもって死ねるはずだ』という
ところに共感を持たれた人が多かったのではないか。年をとればとるほど誰しも、
自分が死ぬ時はどういう風に死ぬんだろうと気にかかる。しかし医療技術が
進んだ今日、お迎えが来るまで、けっこう時間がかかるものらしい。
人間最晩年になると、もうこれ以上生きていなくてもいいやと思いつつ、
それでも自分から進んで最後の旅に出る気にもならない。ある種の優柔不断の
中に生き続ける。その根源にあるのは、最後の旅の中にどうしても残る一定の
未知の部分への不安だろうと思う。あれだけお礼をいう人が多かったのは、
未知なる部分への恐れをあの番組のエンディングがあらかた取り去ってくれた
ということを意味している>
私は、立花氏のこの取材を、「膝を打つ」快挙と思いました。
私自身、死の恐怖が薄れていくのを実感しつつ、未知なる部分に向かう旅の道
のりを静思しながら、「死はそんなに怖くない」と同じことを思い、それを
大きな声で言う人がもっといるべきだと思っていたからです。
立花氏は、その後もNHKに再登場したり、『文藝春秋』『週刊文春』へ、
「死ぬとき心はどうなるのか」のレポートを次々と掲載、話題になりました。
その『週刊文春』の中では、立花氏はこうも書いています。
「回復の望みがなく、あとに待つのはひどい苦痛ばかりということになったら、
そして本人の望みがそれしかないなら、安楽死は許されて然るべきだと思います」
こういう極論を有識者が言ってくれると気持ちがとてもラクになります。
「どうしても苦しくなったら安楽死を選んでもいい」と思ってもいいのだ。
もちろん外国で安楽死をするのは心情的に躊躇するものがありますが、
「伝家の宝刀」を抜いてもいいと後押ししてもらえるだけで、心強いです。≫
▼ 死ぬ原因は、生まれてきたため。死亡率100%である。当り前のことだが、
生まれる前には存在してなかったし、死んだ後にも存在しない。宇宙時間
からすれば、平均寿命の80年は、一瞬である。その中にあって、そのことが
自覚できないで、蓄群の常識とやらに惑わされ一生を終える。それもこれも
妄想でしかない。同じ妄想なら、より鮮明にみたいもの。映画、TVで映像
による妄想を、書籍で文字を通した妄想を鮮明化してみれば良い。せっかく、
貰った人生、より広く、深く、味わって終えたいもの。 もっと、貪欲に!
・・・・・・
5213,閑話小題 〜私の高度成長時代
2015年06月23日(火)
* 私の高度成長時代
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06月23日(木)
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