ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5007,人は死ぬとき何を後悔するのか? 〜3
2066, あたりまえなことばかり −17        おふぁ  ファ〜
 そろそろ、死に支度モードに入らなくては、と思っていたが。チョッと待てよ!
死なないのだから、そんな準備などする必要はない。が、しかし歳相応にギアを変える
必要はある。還暦を過ぎたのだから・・両親の死に際に、二人とも同居していた。
そして「老いる」姿と、肉体的終末を看取って、決して歳をとるのも悪くはないと実感した
経験がある。さらに老いた色いろな人と人生を多く語り合った。だからこそ、老いることは
まんざらでもないことを知っている。一つだけ「死は存在しない」ことを、彼らが知らなかった
のを除けば。「死は観念でしかない」ことが、解るはずはないのは当然である。
母親が、痴呆になっても学ぼうとする姿勢が見えた。 魂は永遠の学びをしていく。
ただし、それなりの人生を活きてこそ、だが・・
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老いは個人の生を超え
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人は、老いるという存在の現象を、なかなか素直に認めることができない。
それを否定的に感じてしまうのは、若さという経験を先にしてしまうからだ。
やがて人は、例外なく順番に40,50歳と年齢を重ね、老いるという現実を肉体の
事実として知ることになる。老いることは死と違って逃れようもない現実である。
生きられてしまった事柄とは、端的にかこである。それは動かせない事実である。
過去は動かせないと知るということは、自分の人生がそのようであったと、それ以外では
あり得なかった、このとき、人は人生の一回性の秘密に触れているのだが、多くの場合
それは、それぞれの感情や感傷によって覆い隠されてしまう。記憶に苦痛の伴わない人は
幸福である。過去は動かせない、しかし動かせる未来もない。なぜ自分の人生はこのようで
しかあり得なかったという、存在への問いが、溜息に等しいような老いの時間は哀しい。
生きるということを、物理的肉体の生存と定義するなら、老いていく過程として生きていくのは
肉体を失っていく過程である。しかし、我われの直感は、決してそんなふうに感じてない。
老いていくことによって、得ているものはたしかにある。何かが確実に増えていくと感じるもの、
それは何か。精神というより、むしろ魂。成熟するのは魂である。魂は成熟する。
「ソウル・メイキング」と呼ばれるもの。現代風の言い回しも、ソクラテスふうには
「魂の世話」となる。経験と時間を織り込みながら、魂であるところの人生を織り上げていくと、
いった意味合いらしい。縦糸に時間を、横糸に経験を、織り込みことで織り込まれつつ、
魂が自身を織り上げていく行程は、刻々老いてゆく肉体の老いとは反比例して豊かである。
いや、肉体の老いとは、それ自体が新たな経験の他ならないのだから。それすらも、
織り込みつつ色はその深さを増すのではなかろうか。人生とは、生死の間に存在する時間。
なるほど論理的には人生には生と死、すなわち一とゼロしか存在しない。 
したがって、時間もまた存在しない。しかし、現実には人生は一とゼロの間に存在するもの、
すなわち無限である。有と無の間で生成する質である。質は論理でない。論理が指示する、
論理自身の影である。論理的には存在しない死を、しかし現実には存在するとして生きて
いるという、このこと自体が人生の不思議である。その存在しない死が近づいてくる老いの
時間とは、いよいよ玄妙なものになっていくはず。
 字数の関係でカット(2011年11月29日) 

11月29日(土)
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