ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5880,世界がもし100人の村だったら お金篇 〜2
東北大震災から数ヶ月後、アフリカの難民をよびよせ、被災民の状況を見て
もらったが、殆どコメントをしないで帰った。彼らにしたら何をか言わんである。
豊かさの中の極貧生活が不幸の最たる状態であるのは、大都市のホームレスを
見れば分かる。今や夫婦間資産格差が出来た私など、不幸の最たるもの?
でも不幸感はない。「不安感」が最小に縮んだからだ。先行きの不安感は、
今が不安定だと生じ、蓄積していく。着地をした現在、今さら「不安」
など感じようもない。
・・・・・・
4044, 一時停止 ー4
2012年04月21日(土)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 他人との出会い
≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長
に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。その精神的成長とは
どういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、
考える力が増すことーいろいろな面から考えることが可能だろうが、そのどれも
が結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。
 群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから
私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と同等な〈個〉、
すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と
同時にその制限をも意味している。言葉をかえると、他人と出会ことによって、
子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。
もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、
いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。もちろん人間にとって
最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんど
の子どもにおいては、母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人
として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。
似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむね
あてはまるだろう。 ≫
▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。
 その時の面々が、その時の自らの分である。それは、自分の広がりでもある。
それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと
暖かさの差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、
その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。自分を意識する前に
見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠が
でき、それが自分になる。それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡
となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。
 ・・・・・・
3678, 自己を見つめる −5
2011年04月21日(木)
  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  ー 境遇 ー
【人生においては、私たちは、それぞれの境遇で、様々な経験をしながら、
 自己自身の人生の有意義性を目指して、日々努力を重ね、永い人生行路の
 過程を踏み、自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的
 歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。
 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール
 (旅する人)」だと語られる。しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何で
 あろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに
 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・
  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。
 格言に言われるように、可愛い子供には旅をさせねばならず、異境に出て、
 他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、
 私たちの人格は、大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の
 過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて見守らねば。

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04月21日(金)
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