ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5578,突然、余命宣告を受けました ー⑦
▼ グローバル化が100年前もあって、その反動で恐慌が起こっていた。
そして、現在も、酷似しているという。現在のネットが、当時としては電話の
普及に当たるとする。現在は、20ヶ国が一同に介して、恐慌が表立つのを抑えて
いるが、現実は既に恐慌が静かに進んでいるというのは正しい。特に日本は、その
先頭に立っている。著者は、日本にとって、3つの内、国家主義と民主主義に
重点を置くべきというが、国家主義とグローバル化しか選択の余地はないのでは
と考えざるを得ない。アメリカの属国しか生きれない体質になっているからだ。
恐慌は、それほど生易しくはない。10年後もしないうちに、東北大震災が
消し飛ぶほどの何か、例えれば、1923年の関東大震災に対する世界恐慌と
太平洋戦争のような。 −つづく
・・・・・・
4107, 哲学で自分をつくる ー5 (デカルト)
2012年6月23日(土)
第二章 まだ自分をさがしているの? ーデカルト―
* 我狂う、ゆえに我なし!
「哲学で自分をつくるー19人の哲学者の方法 」瀧本 往人(著)
デカルトの「方法序説」の『省察』で、狂気についての指摘が考えさせられた。
≪「思う」もしくは「我思う」主体が狂気を携えていることはありえない、
としている。「Aという定理は間違っている」ということを新たな「Bという定理」
から指摘することはできるが、「私は狂っている」ということを「狂っている主体」
が言うことはできない。もし言うとすると、それは「正しい」ことを言っている
のであって、狂っていないことになる。私は先ほど狂っていたが、今は正常です、
と言うことも基本的にはできない。そうすると錯覚や夢とは次元が異なるものと
してデカルトは狂気を提示していることになる。 そうであるがゆえに、
「私が考えるということは、狂ってない人間」の特権と化すのである。
・・つまり、「我思う、ゆえに我在り」を成立させることによって、「我狂う」
場合は「我狂う」という言明もできないし、「我在り」も成立しないと言って
いるに等しいのである。狂気は「懐疑する主体」によって最初から排除されて
いるわけである。≫
≪・・・デカルトは、本当に確かなものはこの世にあるのだろうかと考え、
考え尽くした上で、疑えないものなぞない、という結論に至った。この世に
何も頼れるものがないとは、きっと途方に暮れただろう。しかし彼はこの問いを
さらに突ぎ詰める。そして、まぎれもなく確かなものを発見した。それは、
「すべてを疑った」、そのこと自体は確かだ、ということである。つまリ、
疑い尽くした「我」が「在る」ということだけは、動かしがたい「真実」である
ということ。懐疑の果ての確信。考えれば考えるほど、「自分」以外に確かな
ものはない。だからあなたのように、「自分らしさ」や「本当の自分」を探ると
いうことは、至極当然のことで、そこにリアリティを感じるのは自然なことだ。
ここまではよい。しかし、ここからが大問題だ。あなたは、いつか「本当の自分」
を見つけることができると思っている。だが、それは本当に可能なのだろうか。
もしかすると、前章でふれたソクラテスが導念した「自分の魂を磨くこと」とは、
今でいう「私らしさ」の追求ではないのか。そう思う人がいるかもしれない。
だが、ソクラテスが目指したのは【魂の鍛錬】で、「私らしさ」ではなかった。
彼には「私」とか「主体」いうものの考え方がなかった。「ソクラテス」はいたが
「私」ではなかった。この「私」を発見したのは、今から四百年前、日本でいえば
江戸時代初期に生きたデカルトによってである。では、デカルトこそ「私探し」
の元祖なのだろうか。実はこれも正しいとは言えない。デカルトの目的に、世の中
に確実なことがあるのかを見極めることであった。探していたのは確実性であり、
「真理」である。その真理が実は、「私」を拠点としていたのである。確実なもの
として「私」は登場してくるのであって、探さねばならないものではなかった。≫
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06月23日(木)
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