ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[382933hit]

■6058,閑話小題 〜恐ろしい身近な現実 −3
        ーウェブ2・0」はどこへ消えた?ー古市憲寿
                 『新潮45』〜悪夢の21世紀 より
   * 自撮り写真とブログ
 ブログを自撮り写真と同定するところが面白いが、少し無理がある。
その時どきのベストの媒体のメディアと、当人のエネルギーとが相俟った
能力が時代を動かしていく。それが身近な大学ノートや、手帳だったり、
デジカメやビデオ、今ではパソコンやスマートフォン、ブログやチャット
だったり変化していく。個々の受発信のベースになるブログやチャットは、
写真や録画が大きな位置を占める。それを自録りを可能にするセルカ棒が、
アジア中心に流行しているという。自撮り発信文化が、世界を変えようと
している。ただし、決して明るい未来が待ってはいないと・・
≪ 民主主義社会とは、「みんなの声を尊重する社会である。
 欧州で貴族が政治を支配していた頃、普通選挙を入する際には、
「豚のような民衆に参政権を与えて良いのか」といった批判がき起こった。
その後、日本を含めた近代国家は普通選挙を導入し、誰もが国のトップをも
目指せる民主主義社会が実現された。しかしココでも衆愚問題は消えていない。
事実、自分の想定とは違う選挙結果になった時、インテリたちは「ポピュリズム」
という言葉を使って大衆を馬鹿にする。梅田の言葉を使えぱ、「残念」なのは
ネット空間ではなくて、この社会そのものなのである。確かにそれを技術の力
で変えられるような未来が来るのかも知れない。だがそれはネット空間をどう
こうするという話ではなく、社会を変えるという遠大な作業に他ならない。
新しい技術が社会を変えたと言われることがある。しかし、多くの場合、
それは論者にとって都合の良い出来事が起こった時に、その説明材料として
新メディアが持ち出されただけ、という場合が多い。記憶に新しいところだと、
ツイッターなどソーシャルメディアの力で、アラブの春など民主主義革命が
起こったということになっている。確かに新しい技術が、社会変革に一定の
役割を果たしたことは事実だろう。 しかしそれが「ツイッター」である必然性
はない。たとえば1989年に起こった東欧革命の時は、衛星放送が大きな役割を
果たしたという分析がされた。国境を越えて伝えられる映像の力で民衆による
革命が起こったというのだ。要は、悪政や民衆の不満など様々な革命が起こる
条件が重なった時に、たまたま存在した新技術が「ツイッター」だったという
だけである。また、アラブの春においてより重要な影響力を持ったのは
アルジャジーラだったという分析も多い。 
 佐藤俊樹が『社会は情報化の夢を見る』で述べるように、技術の中身に
関わりなく、新奇なメディアはコミュニケーションを活発にする。しかし、
利用者が増加し、そのメディアの新奇性が消えていけば、人はまた新しい
メディアを探す。その繰り返しである。
 セルカ棒が社会を変えると言っても誰も信じないだろう。しかし、
「インターネット」や「ソーシャルメディア」が社会を変えると言うと、
人は信じてしまうそれは「インターネット」や「ソーシャルメディア」の
ほうが、より未知で、より新しいものに見えるからだろう。だが、それは
人々が実は「インターネット」の内実を何も理解していないことと同義。
「未知」で「新しい」ものに期待できるのは、それをよく「知らない」から。
 本当は、セルカ棒にだって人々のコミュニケーションスタイルを大きく変える
可能性はある。自撮り文化が世界中に浸透、日本人のシャイな性格も変わるかも
知れない。人々は差恥心を捨て、とにかく自分たちの世界を写真に残そうとする。
セルカ棒は、僕たちの性格をも変えてしまう魔法の棒なのだ。
 馬鹿げた妄想だろうか。しかしそれを言うなら、「インターネット」が新しい
社会を作るという楽観論も同じくらい馬鹿げているのである。一番に残念なのは、
「セルカ棒」でも「インターネット」でもなく、新しい技術にただ夢を託して、
のんきな未来語りに一喜一憂してしまう「みんな」自身である。≫

[5]続きを読む

10月14日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る