ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6050,「老人の壁」 〜読書日記 −2
≪ なぜ私たちは、一人前の大人になってから「もう少しまじめに学校の勉強
 をやっておけばよかった…」と反省したりするのでしょうか。 じっさいに
学校にいたときには、「こんな勉強がなんの役に立つのかさっぱりわからず、
まじめにやる気になどなれなかった」という人が(私も含め)ほとんどでしょう。
 では、大人になってから、もう少しまじめにやっておけばと反省するのは、
社会に出て勉強の必要性が身にしみてわかったからなのでしょうか。
どうもそのようには思えません。どんな職業であれ、「自分の仕事に学校の
勉強が役立った」と確信した、などという話はあまり聞いたことがありません。
義務教育で学ぶ勉強が実社会で役に立つはずだ、という思いこみがまったく
幻想であることは、みんな分かっています。社会で要求されるのは、効率よく
仕事をこなすこと、あるいは無駄なく目の前の課題を片づけていくこと。
こうした日々を送っていると、逆に学校時代における学習という行為が、
そのような効率や目的から自由であったことが理解できるはずです。
 古代ギリシアの人々は、人口の二倍にもおよぶ奴隷に基本的な生産労働を
行なわせることで、少なからぬ時間的余裕を謳歌していました。
ただ、彼らはこの余暇の時間を、漫然と過ごしていたわけではありません。
こうした時間を使って、自分を磨く、あるいは教養を高めるといった活動に
励んでいたのです。この「余暇」をギリシア語で「スコレー」といいますが、
この語が英語のスクールの語源であることはなかなか示唆的です。
 おそらく、もともと学ぶという行為は、生産性とか利便性といった功利目的
からは隔絶されたものだったのです。今私たちが、学校時代を振りかえって
ちゃんとやっておけばよかったのにと後悔を覚えるとき、そこでイメージされて
いる勉強もおそらくそのようなもの、つまり功利性とは無縁に過ごせた時間
への郷愁なのではないでしょうか。
 しかし、じつさいの学校における教育はどうでしょう。学校は、社会とは
区別される領域でありながらも、社会への通路でもあるために、社会一般の
価値観がその中に侵入してしまいます。そのため勉強するのはいい大学に入る
ため、あるいは楽な人生を送るためといった功利的な発想がすでに蔓延して
います。私たちが外から夢想するほど、学校での勉強はうらやましいものでは
ありません。たぶん学生のころにもっとちゃんとしていればよかったと振り
かえって後悔する人は、仮に今それが可能になったとしても、同じことを
繰りかえして漫然とときを過ごすだけでしょう。そのときにできなかった人は
今もできないままなのです。それなら振りかえるのはやめて、今からしたい
ように勉強すればいいのです。逆に後悔しても、そのときは勉強できるような
余裕も環境ももてなかったという人もおられるでしょう。そういった人たちも
含めて、何かの役に立つとか、なにかのためにやるとかといった一切の功利性
から離れて、学問(ここでは哲学に限定ざれますが)と向きあってみたいと
思われる方に、すこしでも参考になればと思って書いたのが、この本です。≫
▼ リタイア後から、私レベルだが、読書の質が少しだがアップした感がする。
 学生時代に読んだ本で、社会に出てから自分を支えてくれたのは、効率とか、
創造工学とかいう内容のものより、何かに迷い、吹っ切るために、孫子や、
諸子百家、聖書、仏教書、漱石、鴎外、川端全集などが、面白く没頭して
読んだ本だった。 確かに、ドラッガーの『集中、得手に帆を張れ、内部より
市場に焦点を!』などの知識も、役にたったが・・ で、このザマ。 
 何にも社会経験のない純真なまっさらな時節に、何も捉われることなく
読んだ本こそ、独り彷徨う中で、強い指標になっていた。「逆境に根を、
順境に枝を張れ」というが、その栄養分の元は実体験と培った知識である。
人生の晩秋に枝の葉は枯れても、枝として残る。この年齢で、たわわな
葉っぱを求め、枝を張ることしか知らない人を無知の人という。 
要するに、あのケモノの臭いの強い『世間人』。

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10月06日(金)
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