ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5978,難しいのは「しないこと」を決めること
等々の妄想がよぎる。肉体的には本格的な老化が始まり、精神のバランスも崩れる。
まさに人生の断崖絶壁に立っているといって過言ではない。 何か解るような気がする。
ここを、そのまま過ぎると「こてこてのおばさん」の弛緩した日々が待っている。
自分の趣味を持たないで、日々に流されると、「こてこてのおばさん」になる。
そこで、「おばさん」という言葉から、女性の魅力とは何かを導き出してみよう。
・女という魔物の演技を自作自演でする
男のニーズに合った女づくり
・男とは違う部分を強調し、そこをアピールする
・「美とはバランス」という事実を意識して、バランスの崩れを諦めないでフォローする。
・世間とは、その辺の5〜6人と割り切り、彼らとは違った個性を追求する
等々になる。
その位のことは、誰でもしている? いや、それを止めないことです!
私の知人の女性が、最近、ある会社の営業に勤めだしたという。間接的な話しだが
「そこはジェラッシック・パークというより、動物園の世界だった」という。
その言葉の中に、何かしら中年にさしかかった女性たちの姿が目に浮かぶようだった。
・・・・・・
5248,遠近法こそ、人間の認識方法だ 〜ニーチェ「超」入門〜
2015年07月28日(火)
* 遠近法こそ、人間の認識方法だ 〜哲学『超』入門:白取春彦著
絵画の手法である遠近法を、ニーチェは人間の「生の根本条件」と提示して
いたとは知らなかった。時間的に、空間的に近くの出来事に大きく影響される。
それも若いうちで、還暦を過ぎる辺りから「遠き日は年とるごとに近くなり」
になっていく。
≪ 『悦ばしき知識』(162)に二ーチェはこんなことを書いている。
「…エゴイズムというものは感情のもつ遠近法的法則だ。これによれば、
近いもの程大きく、また重要に見えるし、その反対に、遠くなるにつれて
すべての事物の大きさと重さが減ってゆく」
遠近法というこの言い方は二ーチェの著作に頻繁に出てくる。しかし、
現代のわたしたちは「遠近法で考える」という表現をほとんど使わないし、
聞いてもすぐにはその意味がわからない。ふつうは、遠近法は絵を描くときの
基礎的な手法の一つとして理解されている。
つまり現実の距離感をキャンバスの平面に再現するために遠くの物は小さく
近くの物は大きく配置する手法のこと。これを透視画法とか遠近法という。
それが人間の考え方や見方にもあるということをニーチェは指摘したのだ。
さっきの引用例でいえば、エゴイストはいつも自分の利益にばかり関心がある
ために自分の損得にあまり関係のない事柄や人は自分にとって重要性も意味も
ないように感じているのだ、と説明されるわけだ。
ニーチェはたんに人間のものの見方に新しい名称を与えただけではない。
遠近法による見方というものがなければ人間は生きられないと指摘をしたのだ。
どんな人間にしてもさっきのエゴイストと同様に、これは今の自分に重要、
あれは自分とは縁遠いものだから関わらなくてよい、といった価値の大小や強弱、
切迫性によって判断し、今どころか、この一瞬を生きている。つまり、エゴイスト
とさほど変わらないというわけだ。しかし、このような価値判断こそ、まさしく
人間の認識の仕方であり、生存していくための必須な側面となっている。
その認識の方法こそ、まさしく遠近法だという。ちょっと考えてみればわかる
ように、みんなの遠近法がそっくり同じだということはない。それぞれに異なる。
だから、価値判断もまったく別々になる。客観的にこの価値だけが正しいとか、
真だということは絶対にいえない。ところが、各人にとっては、その各人の価値
判断こそがもっとも有用なものであり、正しい、もしくは真だと思っている。
そして、そういうふうに思い込んでいるからこそ、人は今の価値を信じ今の行動を
意味あるものとして、この瞬間を生きていけるというわけだ。しかし、それは少し
も自覚的なものではない。本人は遠近法を意識することもない。
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07月28日(金)
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