ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5782,多国籍タウンで夢を追う
  *「いのち」に「わたし」がいっとき宿る 〜玄侑宗久
「而今」とは、今のつらなり。あるのは「今」「今」「今」だけである。
 禅とは、この「而今」を繰返づことで、「わたし」の輪郭を薄くする行。
成るほどである。今、この瞬間が永遠のときの一端がある。
瞑想は「わたし」という「閉じた系」から「いのち」を開放するものだと。
  ーその辺りから抜粋ー  〜P90
≪ 暗唱をしているとき意識は「而今」にあると、玄侑氏は言う。
「而今」とは目的論も因果律も届かないような、三昧にある時だそうだ。
たしかに、すでに口から出て過ぎ去った音を意識が追いかけたり、
次に出す音を頭の中で先取りしたりすると、とたんにつかえる。あるのは
常に「今」「今」「今」。音の連なりは、すなわち「今」の連なりである。
暗唱をするとき、その間だけでも「而今」を体験している。(略)・・ 
 玄侑氏も認めている。人間である限り「わたし」を完全に「なくす」こと
などあり得ない。であるからこそ禅は「而今」を繰り返すことで「わたし」
の輪郭を少しでも薄くしたいと願うのだという。
 玄侑氏が再三書いているのが、「わたし」と「いのち」の関係だ。
「いのち」は「わたし」の生れる前からある。
「いのち」に「わたし」がいっとき宿るのだと。
「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション。
 はじめにそう読んだとき、逆ではないかと私は思った。
「いのち」が「わたし」に宿っている、「いのち」が「わたし」の一部だろうと。
なぜって私の体の諸器官が停止すれば命は終わる。たしかに、私の体が土に還り、
その土から芽が出て、その草を虫が食べて、虫を鳥が食べてといった意味での命
の連続はあるだろう。が、それは灰を収めた骨壼も壊れて形をなくした後という、
相当に長い年月のことだ。頭では理解できても、実感からはかけ離れている。
植物も動物もひとつの生態系をなし人間もそれに属するもの、といった類の知識、
それこそ知性によってとらえられるものだろうと。
 自分の命があと数年単位なのか数十年の単位なのかと気を張っている、
そんな長いスパンの命のことを考えられない、という反発もあった。
が、往復書簡をするうちいつの間にか、「わたし」が「いのち」にいっとき宿る、
「わたし」<「いのち」という発想が自然なものになってきた。・・ 
それとは別に、「わたし」を超えた何かもっと全体的な何かがあるらしい
ことを感じるようになってきた。・・ ≫
▼ {「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション
 でしかない}という玄侑宗久の言葉に近い{大自然が元もと存在していて、
自分の姿を見いため人間をつくった}を、何かの宗教書で読んだことがある。
地球上に生まれた生命が延々と時間をかけて、この「わたし」が存在する。
その全てを経たものを「いのち」というなら、その「いのち」にいっとき
宿るのが「わたし」というのは当然である。死ぬのは、それから離れるだけ。
・・・・・・
4687, エッセイ力は人生力 ー2
2014年01月13日(月)
              「60代からのエッセイ教室」木村治美著
  * エッセイを書く目的と、日記との違い
    ーまずは、その辺りの抜粋より
《 あるエッセイ教室の作品集を読んでいたら、はからずも、エッセイを書く
 目的を端的にいい当てた文章に巡りあった。その文章は創刊号であるためか、
おのおの、自分の作品のあとに、小さなコラムで、なぜこの教室に入って
エッセイを書くようになったかの動機を綴っている。ひざ思わず膝を打ちたく
なったのは、つぎの一文であった。「エッセイを書こうと思うようになったのは
十年前のこと。それまでは、日記に思いを記していた。心の重荷をおろすように
書いていたが、後日、読み返すと、もっと心が重くなった。物事の見方、人の心
の動きを観察することで、誰が読んでも傷つかない文章を書きたくなった。
きれいごとのとらえ方ではない。考えることで、自分を成長させたい」

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01月13日(金)
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