ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5783,福田恆存の「私の幸福論」〜B
「私の幸福論」福田恆存著
* 快楽と幸福 ーB
快楽に近い言葉に、「快適」がある。
ネット辞書によると、
「快適」は「心地よい」、
「快楽」は「楽しく過ごしている時に感じる喜び」とあった。
これからして『幸福』とは「快適な状況」で、「喜びを感じる楽しい感覚
ということになるが、それほど簡単に幸せには決めつけられない。これは、
生物だけが実感できる感覚といえば、その極めの体験が『至高体験』。
大自然の壮大な景色などや、偉大な芸術作品に出会った時の感動で、対象の
波長と一体化した状態をいう。感激は心の振動、感動は魂の振動である。
〜その辺りを抜粋〜
≪ 快楽や快適を目指すところには、その底に利己主義がひそんでおります。
刹那的な快楽主義の場合、誰の眼にもそれは明かです。
が、エピキュリアニズムのような個人主義になると、外界にわずらわされぬ
「不動の心」というような精神的美徳を表看板にしているので、私たちは
その底にある利己主義に気づきにくいのです。
さらに、社会主義、共産主義、福祉国家となると、貧しい人々の利害を考え、
「最大多数の最大幸福」というような合言葉が出てくるので、そこに利己主義
があるというようなことに、誰も気がつかないのであります。
人間は人間の道具にはならない。にもかかわらず、快楽というものをつきつめて
いくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ
生きかたに辿りつくのです。だから、私は快楽というものを、おのれ一人に
しかかかわらぬ孤独な迷妄だというのです。
快楽の思想にはなにかが欠けている。私たちはそのことを反省すべきです。
皮肉なことに、私たちに欠けているものの一切を埋めようとする快楽思想に、
わたしたちにとってもっとも大切ななにかが欠けているのです。
それは幸福の観念であります。
「不幸」というのは、ただ「快楽」が欠けているということであり、
「快楽」でないということにすぎない。
私たちは自分の欲するものを得るために戦わなければならない。
その戦いにおいて勇敢でなければなりません。が、今日、「正義」の戦い
を称道する人たちの大部分が、ただ勝利のためだけしか考えていない。
そうなると、敗北すれば、すべては犬死にであります。
将来のことを考えたら、誰も自信がもてないのが当然であります。
思うに、私たちはなにか行動を起すばあい、「将来」ということに、
そして「幸福」ということに、あまりにこだわりすぎているようです。
将来、幸福になるかどうかわからない、また「よりよき生活」が訪れるか
どうかわからない、が、自分はこうしたいし、こういう流儀で生きてきた
のだから、この道を採る」そういう生きかたがあるはずです。いわば自分
の生活や行動に筋道をたてようとし、そのために過ちを犯しても、「不幸」
になっても、それはやむをえぬということです。
「将来の幸福」などということばかり考えていたのでは、いたずらにうろうろ
するだけで、どうしていいかわからなくなるでしょう。たまたま、そうして
得られた「幸福」では、心の底にひそむ不安の念に、たえずおびやかされ
つづけねばなりますまい。それは「幸福」ではなく、「快楽」にすぎません。≫
――
▼<「不幸」というのは、ただ「快楽」が欠けているということであり、
「快楽」でないということにすぎない。> 幸・不幸は、あくまで
受止め方でしかないが、「恒産あって恒心あり」が前提にある。快楽を
満たすためには、満たすだけの力量が必要。私たちは、利己主義と個人主義を
混同してしまいがちになる。公共、公正を守った上に、自分優先に考えるのが
個人主義である。しかし、公共・公正の解釈は各自違うため、誤解が生じる。
考えてみれば、不幸も、幸福も一時的妄想に過ぎない。
【笑っても、泣いても同じ空】なら、笑える状況を自らつくっておいた方が
良いが、どうだろう。隣人を卑下した笑いではなく! 互いに楽しむ笑いでさ。
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01月14日(土)
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