ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5282,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑤
−p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか?
いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか?
そこに独特の感じがするから? だが、なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか?
こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の独特の
作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。
「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか? いや、胃がきりきり痛い時に
それと並んで独特の「私」という感じなどない。そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的
主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」
とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な発光点のようなものであるはずがない。
あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。ここで、別の視点から反省してみるに、
「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。「私」とは過去のあの時も
同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、
現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。
「私」は、過去と現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても
見いだせないのは当然。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。
現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて
「私」は身を現わす。ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても
「私」の同一性は保たれるということだ。夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は
自覚されていない。「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。
まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を
見ていたことになるのである。夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。
「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、ぼんやりもの思いに
耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、
その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。
ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。
私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。
一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。
ーーー
夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。
じゃあ、夢の中で私は何々、云々といっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを
考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない純粋何とかいう未成立の?が、
夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた!
ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた
・・・・・
2013年08月31日(土)
550, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ
『長岡市の昭和』という写真集の広告の折り込みが、今月だけで二度も朝刊に入っていた。
それも、一枚目は表面トップに実家の商店ビルの写真で、二度目は、裏側に、何故か小学校五年時の
クラスの集合写真。出版社に誰か同級生でもいるのかとネットで調べてみたが??7名の小さな
長岡市内の出版会社で、県内だけでなく全国の各市の昭和の街の写真集を出している会社。
団塊の世代以上を狙ったものだが、旧長岡市内の人たちに限定2000冊としても9990円で
売れるのだろうか?その方が心配になる。しかし他は、HPを見ると完売となっていた。
その小・中・高校時のアルバムが、引越しなどで紛失、同級会などで誰かが持ち込んだのを
見るしかなかった。で、51年の時空を超え、このチラシの集合写真を何度か見ているうちに、
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08月31日(月)
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