ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5283,「読書の腕前」〜 「歩く」ことは「読書」に似ている
「読書の腕前」 ー④
〜「読書の腕前」岡崎武志著 ー読書日記 〜
* 「歩く」ことは「読書」に似ている
シンプルで、非常に分かりやすい例えである。7年前から早朝の散歩が、
ポタリング(自転車散歩)にとって代ったが、30年、冬期間を除いて、
近くの土手を毎朝、一時間前後、歩いてきた。 初めは腰痛対策だったが、
いつの間にか、「ストレス解消の癒し」の効用に気づいた。以下に指摘して
ある、「じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じ」が、程よいのである。
その間の、自由な孤独感と、開放感は何とも素晴らしくミニ・リゾートの
ような時間になっていた。それと、「読む」という行為を重ね合わせて同定
するとは、言いえて妙である。 〜その辺りから
≪「読む」という行為が、「歩く」ことと非常に似通っているのを知ったのは、
詩人の長田弘のこんな文章によってだ(『読書のデモクラシー』岩波書店)。
・「歩くということは、じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じをもって、
いろいろなキズナからときはなたれた感じをもって、一人の自由な孤独な
人間となって歩くということだ」
この文章の「歩く」を「読む」に置き換えてみたとき、読書の本質をあまりに
見事に言い当てている。特に「じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じ」
という表現には、「感電した」ようなショックを受ける。
そう、まさに「読書」ってそういうものなんだ、と。
自尊心や劣等感、出生地や職業、年齢や日々のスケジュール、家族や友人、
好きな食べ物や嫌いな歌手など、じつにさまざまな属性をぶらさげて生きている、
この「自分」というもの。考え込んだり、ため息をついたり、「自分」という
やっかいな気ぐるみを着て、生きているようなものだ。
本を読むときに、これらから完全に自由になれるかというとそうでもない。
しかし、物語の時間に慣れて、あるいは著者の思想の渦に呑まれて、本に流れる
血液が手を通して自分の体内を流れはじめる頃、まさに「じぶんはじぶんから
ぬけだして」ゆくのだ。いつの間にかさまざまな属性をぶらさげた「自分」
という着ぐるみを足元に脱ぎ捨て、ほんとうの意味で「裸の自分」がそこにいる。
夢中になると、裸になっていることさえ気づかない。
これこそ、読書の大きな功徳ではないか。長田はこうも書く。
・「歩くことは、あなたが見知らぬ人びとや見知らぬものや自然を見ながら、
その人たちやものや自然から、言葉や形や色でもって語りかけられるということ。
つぎに、あなたのほうでもそれらに語りかけないわけにはゆかないということだ」
・「日々に歩いて心をひらくことができて、はじめて私たちはいま、ここの中身を
ほんとうにゆたかに深く複雑なものにすることができるのだ」と。
いずれも表向きは「歩く」ことを語りながら、読書の本質を言い当てている
ことがわかるだろう。「歩く」というのは、ほかの移動手段にくらべればはるかに
不便だ。自転車、バイク・自動車、電車、あるいは飛行機…時間と距離の効率に
おいて、「歩く」ことは、そのどれにも及ぱない、また「ながら」も利かない。
音楽を聴きながら、ぐらいはできても、歩きながらのの読書や、またノート
パソコンを使っての原稿書きもまず無理。 折り鶴だってできないだろう。
「歩く」ときは、「歩く」ことに集中するしかない。このこともまた、
読書と似ているのではないだろうか。 ≫
▼ 読書の功徳を、「歩くこと」を語ることで、シンプル化して掘下げる。
私の心の財産に、秘境ツアーがある。40歳頃から、ストレス解消として
始めたシリーズも、読書に似ている。「歩く」かわりに、手軽に、秘境旅行
パックのツアーに参加する。そして、大自然の景観に圧倒され、日常の着ぐるみ
を剥ぎ落としてくる。20年間、年に2〜3度だったが、何ものにも換えがたい
経験だった。読書も、半世紀にわたり、2〜5時間は続けてきたが、これも
トリップには最適である。トリップをしすぎて、現実世界に適応出来なかった
ことが、良かったのか悪かったのか?
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09月01日(火)
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