ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5281,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー④
      ーその時、言葉は私の「神」となるー   (新潮45/6月号)
             〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 言葉は原罪から生まれた
 他人からみた私を意識する「自意識」過剰が果たして罪なのか。
二つの私、「自意識の私」と「自我の私」の両者が頭の中で、常に問答をする。
老齢期では、「私の人生、果たして、これで良かっただろうか?」と。
 良かったのだろうか? 人間は生きている限り、原罪を犯すもの。
老いて、その原罪を見つめて悔悟する。知識を持つことは原罪なのか?
知恵を持つことが原罪なのか。他者=世間の目を神のごとく信じるのは、
プラ・マイの両面を持つ。 最後は、自分の自意識で、どう受け止めるか?
 死線を漂い、社会復帰をする中で思った心の奥底は深いもの。〜その辺りから
≪ ああ、諸君。「自我の私」として唯我独尊で生きるのと(もちろん、孤独は
 感じない。もとより孤独という概念がないからね)、「自意識の私」として
他者と繋がりながら傷つけ合いながら生きるのと、どちらが幸福なのだろうか?
少なくとも心肺停止前の「自我の私」で生きていた私は、多幸感に満ち満ちて
いた、他者のいないたったひとり楽園に住んでいて、寂しさも不安も感じず、
その中でぬくぬくと微笑んでいた。周りの人々から見たら、それは呆けた抜げ殻
であったようだが、本人はそんなことちっとも気にかけず、ふわふわと漂い
幸せに生ぎていた。・・心肺停止の後に生ぎ返って、目覚めた私は自意識も取り
戻していた。肉体が回復すればするほど、自意識も回復し、他者との関係に
悩まされるようになった。特に例のMXTVの降板以降は、人と会うのが嫌になって
完壁に引きこもった。社会に拒絶された気分になってひどい孤独感に苛まれ、
誰にも必要とされない自分にはもはや何の価値もないと苦しんだ。
おそらく「自我の私」であったなら、そのような苦しみは味わわなかっただろう。
「孤独」も「自分の価値」も、他者との比較や承認から生じる相対的な概念である。
他者を通して自己を確認するから、他者から拒絶されることが自分の存在まで
脅かすのだ。自己の存在の絶対性を疑いもしない「自我の私」は、仕事を失って
経済的な不安を感じることはあっても、それを己の存在意義の問題とは捉えまい。
そうやって考えると、我々の苦しみの原因は、ほぼ「自意識」に起因している
ように思える。 我々は「自意識」を持つべきではなかったのか。エデンの園で
幸福に暮らしていたイヴに蛇が勧めた「知恵の実」は、やはり禁断の木の実で
あったのか。「自意識」を持つことで我々は他者の目に裁かれ続け、他者に
見捨てられる不安に怯え、大きな苦しみを背負うこととなった。だから聖書は
それを「原罪」と呼んだのか。「自意識」は「罪」であったのか。
犬や猫は鏡に映った自分の姿を「私」だと認識しない。鳥にいたっては、鏡の中の
自分に向かって求愛のダンスを踊るらしい。彼らには己を客体視する能力がない。
彼らにとっての「私」は、ほぼ百%「自我の私」である。彼らは幸せなのだろうか。
他者にとっての客体ではなく、「私」という主体としてのみ生きていくことは、
どんな苦しみも生じさせないのだろうか。いや、待て。「苦しみがない」ことを
「幸せ」と考えていいのだろうか? 苦しみば確かに幸福感とは程運いものでは
あるが、我々は「甘美な苦しみの自意識」というものも知っているではないか。≫
▼「起こってしまったことは変えられなくとも、受止めかたは変えられる」と
 いうが、これも、「自意識の私」を「自我の私」への変換ということ。
「他者を通した自己の確認」を超越して、己の原罪を見つめることが必要である。
そこまで自分を追詰めないと、内なる二つの問答が、蒟蒻問答になる。
・・・・・・
2704、共同幻想を抱いていただけ?
2008年08月30日(土)
 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。
一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。そして右肩上がり

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08月30日(日)
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