ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4927,パワレルな知性 ー5
強いることをしない。そして一年もしないうちに引きずり下ろされる。ー以下の部分は、その理由を端的についている。
≪ 日本の政治家とアメリカの政治家の違いというのは、武道で言うと、アメリカは基本的に「先手」の人であり、
「日本は後手」の人ということ。欧米では、とりあえず国家が行くべき道というか、実現すべき国家像という
ビジョンがあり、それが国民的規模で共有されている。日本には、そんなものはありません。終戦時に、それがなかった。
とりあえず「アメリカ人が日本がかくあるべしと考えていること」をもって国是とした。「自分で与えた憲法の理念と
背馳する命令が出せるほどの強大な国家には従属するしかない」という経験則が存在したということです。
それが日本の国是です。アメリカに従属する。 ・・相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく全神経を集中すること。
どれを武道では「居着き」と言います。物理的には足の裏が地面に張りついて身動きならない状態ですが、構造的に
「負ける」ことです。日本の政治が三流であるということはそういうことです。政治家個々人の資質がどうこうでなく、
構造的に負けているのです。国家像が描けない、統治原理が語れない、外交戦略が起案できないというのは個別的な
知性の問題でなく、日本人全員が罹患している国民的な病です。・・・ ≫
▼ 現在、日本が直面している問題は、まさに上記のことによる。数十年に渡って、間接的米国隷属国家として、
当然、と言えば当然で、これしか出来なかった。上司と部下の関係である。アメリカには建国の精神がある。
独立宣言書である。何かあると、ここに立ち戻って、立て直す。問題があるのは、それから軌道がそれたと理屈づけ
軌道修正をしてきた。明治維新も、太平洋戦争の敗戦も、アメリカの圧力で変化を余儀なくされた。それに日本人の
特質もあり、後手という守りしか手が打てなかった。
現在の領土問題も、これから起因して周辺各国から遊ばれている状態。 つづく
・・・・・
3820, 哲学人 ー�
2011年09月10日(土)
* 現実と経験と言語は一緒ではない ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
ー まずは、「現実把握は、言語的分類次第で決まる」という部分から ー
【 言語が経験を構成するというのである。この見解についてジョーン・サールが、明快に述べている。
≪ 私は言語が現実をつくると言っているのではありません。とんでもない。むしろ、私が言おうとしている
のはこういうことです。何を現実とみなすか ーどういうものをグラス一杯の水として、一冊の本として、
一脚のテープルとしてみなすか、どういうものを同じグラスとか違う本とか二脚のテープルとみなすかー は、
私たちが世界に押しつけるカテゴリーしだいなのです。そして、こうしたカテゴリーはたいてい言語的なものです。
それだけではありません。世界を経験するとき、私たちは経験そのものを形成する際に役立つ、言語的なカテゴリーを
通じて世界を経験しているのです。 世界はもとから物体と経験に分かれて存在しているわけではありません。
何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう知覚するかは、
その表象体系に影響を受けているのです。 言語を世界に適用することを、いわばみずから独立自存する物体に
ラベルをつけることだと想定するのは間違いです。私の考えでは、世界は私たちが分類するとおりに分類される
のであり、事物を分類する主な方法は言語によるものなのです。現実の把握は、言語的なカテゴリーしだいなのです。≫
この考え方はいまなお、哲学者ばかりか、文学や言語学をはじめとする他分野の専門家たちによって、さらには、
一部の社会学者や人類学者たちによって唱えられている。「何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の
一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう知覚するかは、その表象体系に影響を受けている」という点について、
私もサールに賛成したいし、誰もが同意しなくてはならないだろうが、私としてはこれをカント哲学的な意昧に
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09月10日(水)
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