ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5845,号砲一発、北越と第四銀行の経営統合
生き方に迷った時に、自分の臨終を想像し、何に価値を置くべきか、もう一度
判断しなおす方法。50歳を過ぎた頃から、知人が次々と亡くなっていった。
しかし心の中では、「ひと(他人)は先、我は後」の気持ちが強かった。
ところが、いつの間にか70歳の現在に至って、他人事でなくなってきた。
そこで数年前、75歳辺りを目安に設定したが、さて? ーその辺りからー
≪ 人生に背を背くことなく、死に直面するにはどうすべきか。
絶望や恐怖に 駆られることなしに、死を考える方法はあるだろうか。
エティ・ヒレスムの言葉を引用しよう。「人生から死を排除することで、
完全な人生を送ることはできない。反対に、死を歓迎することで、人間は
成長し豊かな人生を送れる」。死をどのように捉えるかが、人生の質を大きく
左右する。ある人は恐れおののく。無視することを選ぶ人もいる。過ぎ行く
どの瞬間にも真価があることを認め、生きる目的をしっかりと認識するため、
死を熟視する人達もいる。死を人生の一部として受容することが、不断の努力
を続けるための気力を養い、無益な気晴らしに時間を時間を浪費することを防ぐ。
誰もが死に直面する一方、そのための準備の方法は千差万別である。
12世紀のチベ・トの聖者、ガンポーパは次の言葉を残している。
「初めは、罠から必死に脱け出そうとして、もがく雄鹿のように死を恐れる。
中間点に着くと、丹念に畑の手入れをしてきた農夫のように、`何も悔やまなく
なる。最終段階に至ると、偉業を成し遂げた人のように、幸福になる」。
死を恐れるほうが、死を無視するよりも遥かに学ぶことが多い。死に付きまと
われて生きることはないが、人間の存在の脆さに気づいていることは大切である。
このように死を理解するのは、人生で残された時間を十分に味うのに有益である。
死は、しばしば警告なしに訪れる。たとえ、健康に恵まれ、友人と美味しい
食事を楽しんでいたとしても、最後の瞬間を越えて生き延びることはできない。
友人を、中断された会話を、半分の食べ残しを、未完の計画を、残して去らねば
ならないのである。 その瞬間に何も悔いはないだろうか。とてつもない人間の
可能性を最大限に引き出した人で、悔いを残した人がいるだろうか。
天気が良かろうが悪かろうが、来る日も来る日も汗水流して種を撒き、作物を
刈り取って働続けた農夫は、最善を尽くしたのだから何も後悔することはない。
その瞬間に、自分自身を責めるのは、成すべきことを怠ったからである。
より優れた人間として自分を向上させ、他者の幸福に貢献するため、あらゆる
瞬間を使い切った人にとって、死は平安となる。≫
▼ この20数年、死とは何かを考え続け、多くの本を読みあさってきた。
一番、心に残ったのが、「死後は生前に戻るだけ」。生とは、その間の
一瞬の間である。その間、宇宙、地球、世界、大自然、社会、人間世界の
光を可能な限り見ることではないか。死んでしまえば、それまでよ。
生きているうち、元気なうち。そのためには、現在なすべきことを、元気な
うちに、なすべきだが・・ 歳のせいにし、漠然とした日常をこなすだけ。
意外なことは、思ったより、死の恐怖感が少ない反面、押しとどめていた
苦い記憶のフラッシュが多いこと。若い時にみた年寄りの内面が、これほど
複雑で、膨大の過去に覆われているとは思いもしなかった。ことに臨んで、
後悔しないかを自問自答してきたが、「後悔しないことなど無い」と、
何ゆえ、思わなかったか? 「これを後悔したとしても、それは仕方ない」
である。でも、実際は、そう考えていた? 「そのまま結構!」ということ。
・・・・・・
5115,吉本隆明の「幸福論」
2015年03月17日(火)
* 老齢の幸福論
吉本隆明の「幸福論」に、青年期、壮年期、老年期に分け、
その老年期を更に三つ、老年期(65〜74)、超老年期(75〜84)、
老年第三期(85歳以上)と分けている。現在の後期高齢者を二分割し、
老年第三期を加えたもの。 私は、老年期半ばの69歳で、しっかりした
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03月17日(金)
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