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堀井On-Line
by horii86
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■5578,突然、余命宣告を受けました ー⑦
文藝春秋:2月号の特集に、『素晴らしき高度成長時代』の特集があり、
それぞれの高度成長時代の思い出の手記があった。1960、1970年代では、
今では想像を絶する右上がりの経済成長の時代で、各家庭には電気洗濯機、
テレビ、冷蔵庫が普及をはじめていた。昭和39年には東京オリンピックが
開催され、私は団塊の世代の直前の生まれで、同期の競争という面では、
絶対数が少ないこともあって、競争意識が少なく恵まれた環境であった。
10歳までは駅前の繁華街に、11歳〜18歳までは長岡駅裏に住んでいた。
高校を卒業直後に駅より徒歩10分の今朝白に両親にとって終の住家として、
当時としては豪邸を建てていた。その直前に進学のため上京した学生寮に、
何かの縁で入ったが、そこが500坪の敷地内に馬小屋のような「くの字」の
平屋。土間の通路の片面に、4畳半と6畳の部屋が20室ほど並んでいた。
そこは今でいうシェアハウスのような共同生活で、国内の様々な地方出身の
学生が住んでいた。 各部屋にはドアがあるが、誰かがノックをすれば、
入室拒否が出来ない不文律があった。それで、様々な赤裸々な私生活を知るが、
人間を知るにはプラスにもマイナスにも働いた。そこで教えられたのは、
まず文学など基礎教養の絶対量の必要性を実感する反面、剥き出しのエゴと
品位が、まる見えになること。各自の素性を聞くことも、話すこともタブーで、
一学生という身分で、分け隔てのないのが学生時代の特徴である。地方出身者
と、東京在住では、生活の質は大違い。炊事洗濯のエネルギーは思いのほか、
大変である。時代は高度成長時代の真只中、学生時代を満喫していた。
学生時代を大雑把に分けると、
・1〜2年が、クラブの合気道と合宿。 寮生活。
・2年の半ばから、軽井沢の山荘の手伝いと、夏休みの『人生設計』の構想。
・3年は欧州の一ヶ月の旅行と、そこで親しくなった友人たちのと交友。
・4年が武澤ゼミの入会と、そこでの卒論。 六日町の禅寺「雲頓庵」通い。
3〜4年を通して、合コンが7〜8回はあった。
現在から振り返ってみて、やはり、2年の夏休みの『キリスト教倫理』の教授
に出された宿題、『将来の人生設計案』の提出。この時に、人生で初めて、
自分の将来を真剣に考え、提出した。時は、日本経済の高度成長、真只中。
・・・・・・
4848、「事業人生を決心して45年」の語り直しー20
2014年06月23日(月)
* 衣料品の季節物は投機商品
秋物の後は、冬物、春物、夏物と一日一日が全く新しい経験。
新シーズンの商品に出会うのは、一周りする一年間は、何もかも初めて。
セーターを例にとると、その素材はウール100%とアクリルがあり、
その混毛もある。その裏を見ると、生産メーカーや、素材などが表示してある
ことすら知らない。それを地元問屋の専務から一つずつ教授して貰う日々。
ひたすら、その場、その場で憶えていくしかない。しかし、過去の勤務先では、
毎日が、高速配転という名の現場教育で、連日が未知との出合いは経験済み。
キャリアとは、各部所への配転で、多くの仕事をこなした職歴を持った総合職。
仕事を身体で憶えるには、現場配転しかない。20歳の頃、「父のような
創業者を目指す」と決意したとき、それは、新規事業を立上げるキャリアを身に
つけるため、留まることない自己配転の人生を選択したことで、常に、その圧を
自分にかけ続けることになった。 新潟駅前のビジネスホテル事業シリーズが、
この結果に終わったのは、10年目か、少なくとも15年目で、その事業から身を
引くか、違う事業に転身出しなかったため! その善し悪しは別として、創業を
繰返す人生を、社会の出発点の構想が、ここでブレていた。 雪国の壁の中、
茹で蛙になってしまい、バブル崩壊とネット社会の到来がもたらす激変を読め
なかった。 「まさか、ここまでの激変が?」では、事業者は許されない!こと。
最後の結果は、時代の激変だけが原因でなく、私の時代感覚の鈍さであり、
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06月23日(木)
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