ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[392205hit]
■4937,閑話小題 ー娑婆は苦しいと思うが・・・
ニカ月間、松葉杖の生活を送ったことがある。どこに行くにも、何をするにも、苦労ばかりの辛い
日々だった。しかし同時に、あのとき数々の苦労を重ねる中で、障害をもつ人の気持ちが少しは
実感できた。その意味で、後からは「よい経験だった」と語り直している。
もちろん、くも膜下出血の体験も同じだ。あのできごとがなければ、それ以前の私と同じように、
命や人生について深く考えることもなく、生きていただろう。そう思うことで、今となっては
「あの体験こそ、自分にとってかけがえない宝物だ」と、胸を張って語り直すことができる。
最後に、フランシス・マクナブという臨床心理学者の言葉を引用しておく。できれば、何度も
繰返し味わってほしい。「記憶をつくり変えたり、それを遠ざけたりするのは無理なことである。
略)…しかし、つねに私たちは、自分の苦悩、自分自身の内的経験、自分自身の精神の経過を
処理しているわけである。それは過去とよばれる客観体ではなく、現在とよばれる主観的経験。
変える必要があるのは、誰か他の人間ではない。最も大きく影響されるのは、私たち自身。
記憶をぬぐい去ることはできないが、記憶の有りようを変えることは可能であることを、
私たちは知っている。」 》
▼ 私も色いろあって、思いもよらない結果、オセロの白が、全て黒になったようなもの。
そこで現在、過去の要素を元に、物語を語り直しを独りしてきた。これこそ、「日々是好日」
から、「ヒビ、これ口実」の辻褄合わせ。その辺りの自分の心の浅ましさがいじましい。
それも、自覚をしていれば良いが、全く自覚なしでやるのが人間。
・・・・・・
4195, 呪いの時代 ー12
2012年09月20日(木)
* 「片づかなさ」の人間性 ー第8章 これからを生き延びる智恵
贈り物を貰った場合、何かを返さない限り気持ちの中に、「片づかなさ」が残る。
これが人間社会とサル社会との差。私はビジネスの場面で、それを徹底してカットしてきたが、
私的場面でも何時の間に持ち込んでいたようだ。これが、つくづく間違いだったと反省していること。
結局、人との付き合いは贈り贈られで成り立っている。 それにしても「贈り物」とそれに対する
「反対給付(お返し)」が、人間たる由縁とは。 以下は ーその辺の抜粋ー
≪ 人類学者マルセル・モースはその著書『贈与論』のなかで、贈与論の主題を端的にこう
まとめています。「受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何で
あるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか」
モースも、マリノフスキーも、レヴィ=ストロースも、「贈り物」とそれに対する「反対給付」が
人間集団を形成する本質的なカだとみなしている点では共通しています。贈り物をされると
「お返し」をしないと気持ちが片づかない。人間性とは、すべての装飾を剥ぎ取って言えば
「贈り物をもらうと、お返しをしないと『悪いこと』が起きそうな気がする」という「負積感」のこと。
いや、ほんとに。だから、この「負債感」を持たないものは人間ではない。そう言い切っていいと
思います。「贈り物」というと、僕たちはふつうお中元お歳暮のようなかたちのあるもの、価値の
あるもの、実用性のあるものを思い浮かべます。でも贈り物はそれには尽くされません。
というか、贈り物というのは「価値あるもの」を贈ることではないからです。そうではなくて、
「これは贈り物だ」と思った人がそう思った瞬間に価値は生成する。そういうふうに順逆の狂った
かたちで贈与という儀礼はつくられる。例えば、挨拶というのはある種の贈り物。
「おはよう」と誰かに呼びかけられる。僕たちはそれを聴くとこちらも「おはよう」と言わなければ
ならないという強い返礼義務を感じます。負債感と言ってもいい。同じ言葉を返さないと
気持ちが片づかない。挨拶した方もそうです。挨拶したけど返礼がないということになると、
気持ちが片づかない。片づかないどころか、心に傷を負います。どうしてでしょう。たしかに、
[5]続きを読む
09月20日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る