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On the Production
by 井口健二
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■すんドめ、ユゴ、アニー・リーボヴィッツ、アース、ペルセポリス、眠れる美女、ぜんぶフィデルのせい、俺たちフィギュアスケーター
その眠ったままの女性と共に一夜を過ごす。
三島由紀夫が、「デカダンス文学の逸品」と評価した原作が
ドイツで映画化された。時代は変われど老人の性の問題は、
恐らくは昔以上に重要になっているとも思える今の時代に、
この作品の映画化は意味があるようにも思える。
同じ原作は、1968年に新藤兼人脚本により日本でも映画化さ
れたことがある。当時の僕は未成年で観ることができなかっ
たが、老人が裸の女性の乳房を鷲掴みにして突っ伏している
スチル写真が印象に残っている。
日本映画の主演は田村高廣だったようだが、当時のスチル写
真では、老人のやせた姿が「枯れ果てた」という感じを持た
せていた。その老人がそれでも性欲にさいなまれているとい
う姿が不思議な感じでもあった。
それが今回の映画化では、主人公はでっぷりとしたビール腹
で、まだまだ性欲もありそうなのが、物語的には判りやすい
感じにはなっている。ただし、そこに至るまでの経緯があっ
て、それが本来のテーマを描くようにもなっていたようだ。
また当時の日本映画では、一糸纏わぬ姿といっても映像上は
限界があったものだが、それも、今回は男性の一部に塗り潰
された部分はあるものの、女性に関しては規制もなく描かれ
ている。
ただ物語の進行の中で、女主人が「今夜は女性を2人用意し
ました」と言っているシーンと、実際に2人の女性が寝てい
るシーンとが繋がっていなかったように思え、確認はしてい
ないが、ちょっと奇異に感じられた。
なお主人公にその家を教える友人役で、マクシミリアン・シ
ェルが共演している。
因に、監督は1941年生まれ、2005年製作の本作は64歳の時の
作品のようだ。

『ぜんぶ、フィデルのせい』“La faute a Fidel”
ドミティッラ・カラマイ原作‘Tutta Colpa di Fidel’を、
『Z』などの名匠コスタ=ガヴラスの娘のジュリー・ガヴラ
スが長編監督デビュー作として映画化した作品。なお監督に
は、子供を題材にしたドキュメンタリー作品などで受賞歴が
あるようだ。
1970年パリ。スペインの名門一家の出身でフランスで弁護士
をしている父親と、ジャーナリストの母親を持ち、裕福な環
境で、学校は名門ミッションスクールに通っていた9歳の主
人公アンナの生活が激変する。
フランコ政権下のスペインで反政府運動を続けていた伯父が
処刑され、父親の姉の伯母と従兄弟が難を逃れて彼女の家に
やってきたのだ。そんな2人を疎ましくも思っていたアンナ
は、さらに家政婦のキューバ難民の女性から、フランコと戦
っている反政府活動家は共産主義者で、赤くて髭を生やし、
核戦争を起こそうとしていると教えられる。
ところが、その出来事を切っ掛けに父親の心情が変化し、ア
ジェンデ政権樹立を目指すチリの反政府運動への支援を開始
する。一方の母親は、中絶問題の取材から女性開放を目指し
て行動に出始める。そのため住まいは小さな家に引っ越し、
その家には髭を生やした男たちやいろいろな人々が出入りす
ることに…
さらに家政婦はギリシャ人やヴェトナムの女性に替り、アン
ナはミッションスクールへの通学は許されるが、キリスト教
教育は禁止されるなどなど…、生活は根底から覆されてしま
う。そして、それもこれも「ぜんぶ、フィデル(カストロ)
のせい」と思うようになるのだが…
監督は1970年生まれとのことで、当時のことをどれだけ実感
しているのかは判らないが、父親が『ミッション』を監督し
たときの体験や知識から、この原作に興味を持ったとのこと
だ。従って、物語は多少極端に走りすぎる感じもあって、そ
の辺が当時を実体験している自分としては多少面はゆいとこ
ろもあったが、当時の自分の周囲を思い起こすと、確かにこ
んな時代だったなあと言う感じは思い出させてくれた。
実際に、大学で学生運動をしていた同級生から聞かされた彼
の一家が、父親が労働運動家でこんな風だったようだ。映画
は戯画化風に描かれているが、現実もこれからそう遠くはな
かったものだ。

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10月20日(土)
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