ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File108】観戦記10万ヒット目前・・・Shall We タンク!再び【第一弾】
第一次大戦後の世界的不況と軍事削減の風潮の中で、安価な経済性面を重視した小型装甲車両が各国において開発された。その代表的な車両が英国製のカーデン・ロイド機関銃運搬車である。日本陸軍もカーデン・ロイドMk.6型を輸入、実用試験を行い、1932年に陸軍技術本部において装軌式小型牽引車・・・弾薬を積載した装甲全装軌式貨物車を牽引して前線への弾薬補充を行い、自衛用に車体全体に装甲を施し、旋回砲塔に機銃を装備した・・・の開発が開始され、1933年に東京瓦斯電気工業において試作車が完成・・・『TK(小室哲・・・じゃなく小型牽引の略)車』という略称が付けられた。その後、実用試験を経て北満州において実地試験が行われ、1934年に制式採用となる。当初仮採用時には「九四式装甲牽引車」という名称だったが、制式採用時に『九四式軽装甲車』と変更された。なおトレーラー型全装軌式貨物車は、同じく東京瓦斯電気工業において製作され1934年に「九四式四分ノ三屯積全装軌式被牽引車」として採用された・・・しかし九四式軽装甲車は、本来の敵砲撃下での弾薬補給という任務には殆んど使用されなかった為、生産台数は少数であった。九四式軽装甲車自体は、1935年から1940年までの間に約850両が生産された。実戦での使用結果を基に、1936年からは誘導輪を大型化し接地面を下げ、履帯接地長を増加(約80cm)させ接地圧を低下させ、不整地走行性能等機動性の向上させた改良が施された・・・この改良型は改修九四式軽装甲車と呼ばれ、高速走行時の安定性や走行時射撃性が向上した。また一部車両は、武装を九四式37mm戦車砲に換装し攻撃力の向上が図られた。1935年から部隊配属が開始され、1937年中頃には戦車中隊内の一個小隊は九四式軽装甲車装備の小隊編成となった。また独立軽装甲車中隊も数多く編成され、1937年の日華事変勃発時には計七個独立軽装甲車中隊が派遣された。同年10月の南京攻略戦時には、戦車第五連隊の他に二個独立軽装甲車中隊が参加したが、中国軍対戦車砲の待ち伏せ攻撃により一度に四両を失うなど大きな損害を出した。しかしその機動性を有効に活用して常に第一線を歩兵と共に進撃し南京攻略の立役者となった。翌1938年の広東攻略戦時には、三個独立軽装甲車中隊が参加、有効な機甲戦力として活躍した。1937年12月迄には、独立軽装甲車中隊の編成は十三個にも及んだ。1939年後半になると、これら独立軽装甲車中隊は徐々に戦車連隊へと改編され、九四式軽装甲車は第一線装備から外されるが、歩兵師団所属の騎兵部隊が捜索隊(機械化捜索連隊)に編成替えされるに伴い、軽装甲車中隊が加えられた。各歩兵師団では、師団固有の唯一の機甲戦力として、捜索や連絡任務用の豆戦車として重宝された。その様子は戦時中の1942年、実際に中支駐留の歩兵師団を動員して撮影された田口哲監督作品【将軍と参謀と兵】の中で良く描かれている。太平洋戦線では1939年頃から、後継車両である九七式軽装甲車が優先して配備され始めるが、中国軍が有効な機甲戦力を有しなかった中支戦線では、装備改編が後回しとなった為、終戦時まで重宝されていた。
【攻撃力】砲塔は旋回ハンドルではなく、車長が機関銃ごと旋回出来る軽量な物であった。初期には十一年式軽機ベースの九一式車載6.5mm軽機が搭載されていたが、ご存知の通りこの軽機関銃の給弾機構は複雑でジャミング等の故障が多く、また口径が6.5mmと威力も弱かった為、後に有名なチェコ製ZB-26型7.92mm軽機関銃を参考にした九七式車載7.7mm重機関銃へと改良され搭載された。それまでの九一式車載軽機には銃身に保護装甲ジャケットが無く破損が多かった為に、九七式車載重機には銃身部に保護装甲ジャケットが取り付けられ、また照準眼鏡には射手の眼を発射時の反動から守る為のゴム製クッションが取り付けらた。さらに九七式車載重機は、取り外して車外での戦闘も可能だった。しかし九四式軽装甲車での搭載弾数は1,980発・・・30発弾倉66個・・・しかなく、また30発箱型弾倉式給弾の為、射撃の持続性が弱く制圧射撃には向かなかった。

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05月08日(日)
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