ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File103】マカロニ戦線異状アリ・・・珍説イタリア戦争映画史《補説》
1944年3月23日午後2時過ぎローマ中心部のトレヴィの泉からほど近いラセッラ街において、大音響とともに時限爆弾が爆発し独軍兵士33名が死亡した。爆弾はパルチザンの医学部学生らによって仕掛けられた物で、激怒したヒトラーは、報復として24時間以内に、死亡した独軍兵士の50倍のイタリア人を処刑する命令を下すが、駐伊独軍司令官ケッセルリンクの嘆願によって10倍に変更された。結局一般市民ではなくローマ近郊各地の刑務所に収容されていた反ファシスト政治犯、刑事犯、ユダヤ人が中心の335名の処刑者が選抜され、翌24日ローマ市南部旧アッピア街道沿いにあるアルデアティーネの洞窟内において処刑が執行された。その処刑は凄惨を極め、処刑を担当した独兵たちはブランデーで泥酔し正気を無くしながら、銃殺を執行。処刑終了後に洞窟の入口は爆破、封印された。1943年9月にイタリア本土に上陸していた連合軍だったが、山地の多いイタリアでの行動は制限され、また南西方面軍集団司令官ケッセルリンク空軍元帥指揮下(ロンメルも指揮下にいた)の独軍による巧みな遅滞防御戦術に阻まれ進撃は停滞していた。特にモンテ・カシーノでは、山頂にあった中世以来の聖ベネディクト修道院に立て篭もった精鋭独降下猟兵部隊が、連合軍の数度に渡る総攻撃を撃退、結局連合軍は山頂にあった歴史的にも貴重な修道院を爆撃によって徹底的に破壊した(貴重な芸術遺産は独軍によって爆撃前にローマへと避難した)が、完全占領は3月まで出来なかった。連合軍は1944年1月22日に独軍防衛線背後のローマ近郊アンツィオに起死回生の上陸を決行するも、独軍の欺瞞工作に騙され戦線拡大の機を逃し、ようやく6月4日にローマ入城。約9ケ月ぶりにローマに戻った国王とバドリオ首相らの共同交戦国政権は、連合軍に解放された南部イタリアの軍政を掌握していたが、9ケ月前のローマ逃亡は国民から反感を買っていた。王室の存続を図る為、翌6月5日早々に国王は退位し皇太子ウンベルト二世が摂政位に就任(終戦翌年1946年6月に行われた国民投票により12対10の比によって王制は廃止、共和制となる)。また6月10日にはバドリオ首相が解任され、後任に国民解放委員会議長のイヴァノエ・ボノミが任命された。この間にも連合軍の侵攻の遅さに痺れを切らした北部イタリアの反ファシスト勢力は、中・北部イタリア地域で抵抗運動を活発化。昨日までの隣人が敵同士となり、独軍の報復による犠牲者も増え、結局血で血を洗う凄惨な戦いが繰り広げられる内戦状態にまで発展。1944年7月にリヴォルノ、8月にフィレンツェがパルチザンによって解放されると、サロ政権はいよいよ追い詰められる。1945年4月18日ムッソリーニはミラノへ移り、スイスへの逃亡を画策する。連合軍はボローニャに迫り、ロシア軍はベルリンに迫った。連合軍の進撃に呼応した北イタリア国民解放委員会(CLNAI)に指導され、パルチザンが駐伊独軍に対して一斉蜂起。1945年4月25日ようやく連合軍がミラノを解放し、遂にイタリアでの組織的戦闘は終結した。
Eムッソリーニの処刑と悲劇の終焉
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02月01日(日)
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