ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File128】男たちの硫黄島・・・Bある星条旗(ハタ)の物語【後編】
その日の朝、前日までの米軍の激しい砲爆撃によって、摺鉢山の日本軍からの反撃は殆んど無くなっていました。第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐は、摺鉢山へ偵察隊を送る事を決め、指揮下のF中隊長アーサー・ネーラー大尉に少人数の偵察隊を山頂に送る様命じました。ネーラー大尉は部下の中から、最も経験豊富な下士官で第三小隊の分隊長シャーマン・ワトソン軍曹を選び、摺鉢山北側からの登頂ルートを偵察する様命じます。0700時シャーマン・ワトソン軍曹は信頼出来る部下のジョージ・マーサー、テッド・ホワイト、ルイス・シャーロの3名を率い登頂を開始・・・一時間半程で無事に下山し、ネーラー大尉に対し摺鉢山の頂上には日本兵の姿は無かったと報告しました。ネーラー大尉からの報告を受けたジョンソン中佐は、今こそ頂上確保のチャンスと判断し、部下のE中隊長デイヴ・セヴェランス大尉に一個小隊を頂上確保に向わせる様に命じます。E中隊所属の各小隊は、上陸初日以来大きな損害を出していましたが、中隊長セヴェランス大尉は頂上確保部隊として第三小隊(残存25名)を選びます。第三小隊は本来の小隊長キース・ウェルズ中尉(海軍殊勲章受章者)が負傷し後送されており、小隊先任下士官であるアーネスト(ブーツ)トーマス軍曹(海軍殊勲章受章者)が、指揮権を引き継いでいました。E中隊長セヴェランス大尉は、摺鉢山麓北東の第二大隊指揮所に第三小隊員を呼び寄せると、歴戦の海兵隊将校で副官としても信認の厚いハロルド・G・シュリアー中尉を臨時の第三小隊長に任命します。またジョンソン中佐は第三小隊の戦力増強の為に、大隊の他の部隊から機関銃2班と60mm迫撃砲1班、負傷兵後送用担架兵1組と無線通信兵1名の計15名を臨時に第三小隊に配属します。この時、海兵隊員向け広報雑誌レザーネックマガジン誌の従軍カメラマン、ルイス・ローリー軍曹が、小隊への同行を申し出て許可されます。ジョンソン中佐は、小隊員たちを前に任務を説明した後、シュリアー中尉に、頂上を無事に確保出来た場合に掲揚するように、と一枚の星条旗を手渡しました。この小さな星条旗(W54inch×H28inch)は、大隊副官ジョージ・G・ウェルズ中尉が、艦隊輸送艦USSミズーラ号(APA-211)から持参したものでした。こうしてシュリアー中尉以下42名の海兵隊員たちは、不気味に静まり返った摺鉢山山頂(166m)を目指し、ゆっくりと登り始めたのです。
【写真上】大隊指揮所の前に集められた海兵隊員たち【写真下】摺鉢山山頂を目指して出発するシュリアー中尉率いる強行偵察小隊
シュリアー中尉率いる強行偵察小隊は、途中怪しい洞窟を見つけると火炎放射器で焼き払い、入り口を手榴弾で爆破しながら、用心深く山肌を登って行きました。歴戦のシュリアー中尉は、一列縦隊で山肌を登っている小隊の側面を護る為に数名を側衛として配置・・・場所によっては手も使って攀じ登る程の急な斜面を登って行きます・・・その間、上陸海岸や沖合いの艦艇からは、海兵隊員や水兵たちが心配そうに彼らの登頂を眺めていました。
【写真】砲爆撃により一層険しくなった山肌を登って行くシュリアー中尉率いる強行偵察小隊
【写真】海兵隊員たちの登頂ルートを当時の摺鉢山写真にて推定
【写真】ネット上で発見した現在の摺鉢山の写真・・・長年の風雨侵食で、1945年2月当時に海兵隊員たちが利用した登頂ルートは判別出来ず・・・現在は写真右上に見える舗装道路によって、車両に乗ったまま山頂まで登る事が出来る
やがて45分程で山頂に無事到着・・・1010時、頂上に辿り着いた海兵隊員たちは最頂上付近の旧噴火口周辺部に散開、暫くの間は周囲を警戒していましたが、結局心配していた様な日本軍の反撃は無く、数人の日本兵の遺体を発見しただけでした。
【写真上】山頂付近に到達した海兵隊員たち【写真下】日本軍の反撃を警戒して配置につく海兵隊員たち

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01月21日(日)
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