ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File127】男たちの硫黄島・・・Aある星条旗(ハタ)の物語【前編】
『父親たちの星条旗』でも重要なアイテムとなる第二の星条旗/2ndFlag掲揚についても確認しておきたいと思います。そもそも全ての事の発端ですが・・・1945年3月23日、米海軍長官ジェイムズ・フォレスタルが上陸作戦総指揮官ホーランド・スミス海兵中将と共に硫黄島に上陸します。そして摺鉢山の山頂に最初の星条旗が掲揚されるのを見たフォレスタルは、スミス海兵中将に「摺鉢山上の星条旗掲揚は今後500年間、海兵隊に対して重要な意味を持つな」と言ったそうです。そして気まぐれに掲揚された星条旗を記念に(戦利品として)持って帰りたいと言いました・・・全てはこの一言が発端でした。このフォレスタル長官の要請は、その後、人伝てに第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐に伝わります。この要請は生粋の海兵隊員であるジョンソン中佐には、とても受け入れる事の出来ない要請でした・・・ナッツ!(と言ったかどうかは不明ですが・・・汗)・・・糞喰らえとかふざけるな的発言があったのは間違いない様ですな。ジョンソン中佐にしてみれば「あの旗は我々第二大隊のものだッ!」だった訳です。彼は大隊副官テッド・タトル中尉を呼ぶと、海岸に行って資材の中から交換用の別の、そしてより大きな星条旗を探して来るよう命じます。タトル中尉は星条旗を探しますが、兵員や資材の揚陸直後で大混乱中の海岸堡で、そんな簡単に見つかるはずありません。しかし鬼の大隊長の命令は絶対です・・・右往左往した挙句、タトル中尉は戦車揚陸艦(LST)779号の乗員アラン・ウッド少尉から星条旗(H56inchXW96inch)を入手する事に成功します(海兵隊公式戦史による)・・・後に解った事ですが、この星条旗は真珠湾攻撃の日に沈んだ艦艇から引き揚げられ、オワフ島の廃材置場に置かれていた星条旗だったとか・・・なんか嘘臭いけど本当かなぁ。
※一説によれば、ジョンソン中佐に星条旗探索を命じられたのはタトル中尉ではなく、中隊指揮所付伝令であったレイニー・ギャグノン一等兵で、彼は戦車揚陸艦(LST)758号の補給担当士官ロバート・レズニックに星条旗を譲ってくれるように頼み、それに対しレズニックは艦長フェリックス・モレンダ沿岸警備隊大尉の許可を受け、艦に搭載されていた星条旗のひとつをギャグノンに渡したとの事(・・・レズニックが2004年11月に証言した)・・・因みにこの星条旗はメア島海軍工廠の職員メイベル・ソヴァギューが縫われている(沿岸警備隊戦史部による)

ジョンソン中佐は、山頂のシュリアー中尉の無線通信機のバッテリーが弱っていて交信に支障が出ていた為に、E中隊長デイヴ・セヴェランス大尉に対し、大隊指揮所と山頂の間に有線電話の電線敷設を命じ、セヴェランス大尉は部下のマイケル・ストランク軍曹にそれを命じます。またセヴェランス大尉は、シュリアー中尉の無線通信機の交換用SCR-300バッテリーを入手する為、中隊指揮所付伝令レイニー・ギャグノン一等兵を大隊指揮所に派遣しました。電線敷設を命じられたストランク軍曹は、自分の部下の中から気心の知れた3名(ハーロン・ブロック伍長、アイラ・ヘイズ一等兵、フランクリン・サウスリー一等兵)を選び、共に大隊指揮所に向い、そこでレイニー・ギャグノン一等兵と合流します。この時ジョンソン中佐は、ギャグノンにバッテリーと一緒に交換用の星条旗を持たせ、シュリアー中尉に届けるよう命じていました。1100時頃ストランク軍曹一行は電線を敷設しながら、摺鉢山を登り始めます。

同じ頃、AP通信社カメラマンのジョー・ローゼンソールが、海兵隊報道班カメラマンのボブ・キャンベル一等兵とムービーカメラマンのウィリアム・ジェノースト軍曹(星条旗掲揚の9日後に戦死)と共に摺鉢山山頂を目指して登っていました。ローゼンソール一行は、山の中腹で下山する海兵隊員一行と擦れ違います。その中に最初の星条旗掲揚の写真を撮影した海兵隊報道班のルイス・ロワリー軍曹がいました。ロワリー軍曹は、ローゼンソール一行に対し既に星条旗の掲揚が終わり、その写真を撮影した事を告げました・・・星条旗掲揚シーン撮影のチャンスを失ったローゼンソール一行は、一旦は下山しようと考えますが、ロワリー軍曹から山頂からの景色は絶景だと聞かされ、とりあえず山頂へ向う事にします。ルイス・ロワリー軍曹が撮影した最初の星条旗掲揚写真

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01月12日(金)
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