ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File126】男たちの硫黄島・・・@イーストウッドの挑戦
因みに邦画において硫黄島の戦い≠題材とした映画は、日本映画界を代表する俳優の一人だった宇野重吉氏が監督し、組織的抵抗の終った硫黄島を舞台に生き残った日本兵たちが辿った運命と生還者の苦悩をサスペンスタッチで描いた『硫黄島(1959)』と、ミッドウェー敗戦後に海軍の基幹となるべき中堅幹部の養成を目的に、予科練等の志願年齢であった16歳よりも低い14〜15歳で採用した少年兵たちが硫黄島に配属され、地獄の戦場で散って逝く悲劇を描いた『海軍特別年少兵(1972)』くらいでしょうか・・・。
【イーストウッドと硫黄島二部作】
1994年1月11日午前2時12分・・・摺鉢山の山頂に星条旗を掲げた6名の英雄の最後の生存者ジョン・ブラッドリーが亡くなった・・・享年71歳。彼の死後、息子であるジェイムズ・ブラッドリーが亡父の遺品の中から、亡父が摺鉢山の星条旗掲揚者として得た写真や書類そして手紙を発見しなければ、この硫黄島二部作を私たちが観戦する事はありませんでした。ジョン・ブラッドリーは、戦後生まれ故郷のウィスコンシンの片田舎の町に戻り、幼馴染と幸せな結婚をし、念願だった葬儀社を開業し、8人の子供を得、そして一生を終えるに当たって、自分が摺鉢山の星条旗掲揚者の一人だった事実を、墓場の中まで持って行くつもりだったからです・・・つまり息子が亡父の手紙を見つけたのが最初の幸運。そして亡父の手紙を読み、亡父が決して語らなかった摺鉢山の星条旗掲揚者について息子ジェイムズ・ブラッドリーが興味を持った・・・これが二番目の幸運。その後6年近くの歳月をかけて資料を調査し、関係者にインタビューした結果をまとめたジェイムズ・ブラッドリーが、出版の企画を27社もの出版社に持ち込みながら、その全てで相手にされなかった時、28社目の出版社の一女性編集者が企画に興味を持った・・・三番目の幸運。そして執筆活動は全くの素人だったジェイムズ・ブラッドリーがピューリッツァー賞作家ロン・パワーズに出会った・・・四番目の幸運。やがて出版されたノンフィクション作品『硫黄島の星条旗/FLAGS OF OUR FATHERS』は一躍ベストセラーとなった・・・五番目の幸運。そのベストセラーにイーストウッドが興味を持ち、是非映画化したいと思った・・・六番目の幸運。しかしイーストウッドが映画化権を取得するには資金的に問題があったのだが、スティーヴン・スピルバーグの協力があり映画化権を取得出来た・・・七番目の幸運。イーストウッドは当初監督するつもりはなかったが、スピルバーグ自身は自分が監督するのは無理と、イーストウッドに監督を薦めた・・・八番目の幸運。イーストウッドは監督を引き受け、自ら硫黄島の戦い≠ノついて調査する内に、日本軍の作戦や将兵(指揮官栗林忠道中将)にも興味を持ち、日米双方の兵士の視点から全く別々の映画を製作する事を思いついた・・・これが九番目の幸運。こうして幾度もの幸運が重なって、私たちは硫黄島二部作を観戦する事が出来たとも言えます。それではイーストウッドは、何故一本の作品ではなく二部作として撮影したのか?
イーストウッドが自らが【父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙】公式サイトの中で過去の戦争映画の多くは、善悪が明確に区分され描かれているが、人生も戦争もそんな単純な区別は出来ない≠ニ述べています。確かに戦争映画の大部分では敵方のドイツ軍や日本軍、ベトコン等は大抵悪役です。スピルバーグ監督作『プライベート・ライアン』でさえ、観方によっては、次第にドイツ軍憎しという感情が湧いてきます。反面敵味方を公平な立場で描いた作品(『トラ・トラ・トラ』等)や、敵よりは自軍内部の不条理を描いた作品(『戦争のはらわた』等)には名作や秀作と呼ばれる作品が多いのも事実です。
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01月01日(月)
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