ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
[455595hit]

■【File103】マカロニ戦線異状アリ・・・珍説イタリア戦争映画史《補説》
一方駐伊独軍は、イタリア休戦の情報を既に掴んでおり、8月末までに既に8個師団が増援としてイタリアに派遣され(総兵力20万)、休戦発効と同時にナポリ以北の中・北部イタリアを占領、ギリシア・エーゲ海地域や東部戦域を含む各地のイタリア軍を迅速に武装解除、抵抗する者は射殺した。9月8日ナポリが市民の蜂起によって解放され、その翌日9日に連合軍はナポリ南部のサレルノに上陸したが、駐伊独軍の強固な防衛線(ローマ防衛線でモンテ・カッシーノを含むグスタフ線▼・・因みにフィレンツェ〜ボローニャ防衛線はゴチック線)に前進を阻まれる。この時ムッソリーニは逮捕以来、奪回を恐れた新政府側によって各地を転々として監禁生活を強いられていた。ヒトラーにムッソリーニ救出を命じられた親衛隊大尉オットー・スコルツェニーは、ローマ東方アペニン山脈の標高2914m地点にあるグラン・サッソ山荘(三方を山で囲まれ麓との交通手段はケーブルカーのみ。約100名のカラビニエリ(国家憲兵隊)部隊が警備していた)にムッソリーニが監禁されている事を突き止める(警備に関わったイタリア警察の高官がリークしたと言われている)。9月12日午後2時スコルツェニー指揮下の武装SS及び空軍の混成降下猟兵部隊が、グライダー12機に搭乗、山荘前面の僅かな平地に強行着陸(着陸成功8機)・・・警備のカラビニエリ部隊は簡単に降伏。山荘内からムッソリーニを無事救出し、距離離着陸が可能なフィーゼラーシュトルヒ連絡機でムッソリーニとスコルツェニーは脱出、残った独兵たちは悠々とケーブルカーで下山した。ヒトラーはスコルツェニーや救出部隊員の功績を称え、叙勲・昇進で応えた。
Cサロ共和国建国
9月13日ミュンヘンに到着したムッソリーニとヒトラーが再会、熱い抱擁を交わす。ヒトラーは心身ともに憔悴して気力を失っていたムッソリーニに対し、再度政権掌握を勧め、9月18日ミュンヘンにおいてイタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana=RSI/俗称:サロ共和国)の建国を宣言させた・・・イタリア北部ガルダ湖畔の避暑地サロに政府庁舎を置き、伊ファシスト政権の存続を図るが、所詮はナチス・ドイツの傀儡政権(領土のない名前だけの国で、最早ムッソリーニは何の実権も無いお飾り)に過ぎなかった。1943年11月半ば、新生共和ファシスト党の第一回会議がヴェロナで開催され新国家の憲法と基本方針が発表され、更にはユダヤ人を敵性外国人と見なす反ユダヤ主義的宣言が行われた。以前イタリアでは反ユダヤ的な政策は執られていなかった為、これらはナチス・ドイツの影響を多大に受けていると言わざるを得ない。結局、サロ共和国では1943年末までに1万人以上のユダヤ人が強制収容されたと言われている。更にムッソリーニが逮捕される切欠となった「ファシスト大評議会」の席上で「統帥権の国王への返還」決議に賛成した「反逆者」への報復裁判も行われた。特に偽造旅券でスペインに逃亡中、身柄を拘束されドイツに送致された娘婿で元外相のチアノの処遇が注目された。逃亡に成功して欠席裁判となった13名を除く6人については、1944年1月8日から三日間、ヴェロナのヴェッキオ城で裁判が行われた。被告たちは「旧体制内における政権の改善を求めただけ」と無罪を主張したが、既に判決の筋書(多分にドイツ側の影響があった)は出来ており・・・当然の如く「死刑」判決が下され、翌日11日午前9時に処刑は執行された。サロ共和国には一応軍と呼べる組織があったが、その実態はファシスト党の私兵「黒シャツ隊(各地域ごとに41個旅団)」や、海軍大佐ボルゲーゼ公指揮下の魚雷艇(マス)戦隊を改編した即席歩兵部隊、そして連合軍との徹底抗戦を叫ぶ諸部隊を糾合したものだった。しかし中には独軍も賞賛する歴戦の精鋭部隊もあり、パルチザン掃討や対連合軍戦に戦果を上げたが、国家崩壊直前には地方軍閥の体を成した私兵部隊の様を呈していた。
D連合軍の侵攻と抗独・反ファシスト・パルチザンの活動激化

[5]続きを読む

02月01日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る