ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File129】男たちの硫黄島・・・C海軍衛生下士官は二度ハタ(星条旗)を揚げる?【前編】
摺鉢山の山頂に星条旗が掲揚されてから19日後・・・硫黄島での戦闘も終盤となり、日本軍総指揮官栗林忠道中将が残存兵力による最後の攻撃を決断し、歩兵第145連隊長池田増雄大佐に軍旗の焼却を命じた1945年3月14日・・・その日の午前9時30分、硫黄島に上陸した三個海兵師団他を統括する第5水陸両用軍団司令部において、硫黄島における三番目の星条旗の掲揚が行われました・・・遠征軍総指揮官リッチモンド・K・ターナー海軍中将、硫黄島派遣部隊総指揮官ホーランド・M・スミス海兵中将、第5水陸両用軍団司令官ハリー・シュミット海兵少将、第3海兵師団長グレーブス・B・エルキンス海兵少将、第4海兵師団長クリフトン・B・ケーツ海兵少将、第5海兵師団長ケラー・E・ロッキー海兵少将ら米軍首脳が参列する中、ディビス・スタッフォード海軍大佐によって太平洋方面最高司令官チェスター・W・ニミッツ海軍元帥の硫黄島の占領と軍政の開始を告げる宣言≠ェ代読された後、第5水陸両用軍団司令部前の旗竿に、第三の星条旗が厳かに掲揚されると、参列した将兵が一斉に敬礼を捧げました・・・そして、それまで摺鉢山の山頂に翻っていた第二の星条旗は、その役目を終えて静かに降ろされました・・・米軍が硫黄島の完全占領を公式に宣言したのは、それから更に二日後の1945年3月16日午後6時の事でした。

【写真】第5水陸両用軍団司令部の旗竿に翻る第三の星条旗に対し、一斉に敬礼する米軍兵士たち。彼方に摺鉢山が聳える。

【最初の星条旗を掲揚した男たち】
さて、ここからが今度こそ話の核心です(本当ですよ!)・・・『父親たちの星条旗』では、殆んど重要ではなかった最初の星条旗を掲揚した男たちについてのお話です。まずは今までの公式解釈に基づく、ローリー軍曹の写真における各海兵隊員たちの立ち位置をご覧下さい。この写真には7名の人物が写っているのが確認出来ますが、その内で官姓名が明確に特定出来ていたのは6名だけです。ハンセン軍曹の左横に立っている通信機を背負った海兵隊員については、長い間その官姓名が不詳でした。しかしそれ以前に、このローリー軍曹の写真自体が、ローゼンソールの第二の星条旗写真が余りにも有名になり過ぎた為に、余り注目されずにいたのも、また事実です。その為、最初の星条旗掲揚に立ち会い、ローリー軍曹の写真に写っているチャールズ・W・リンドバーグ伍長は、戦後長い間「私は摺鉢山の星条旗掲揚に立ち会ったと言っても、周囲から散々嘘つき呼ばわりされ、禄な事がなかった」と述べています。当時まだ24歳だったリンドバーグ伍長ですが、既にガダルカナルとブーゲンビルでの戦闘を経験したベテランと呼べる海兵隊員で、1945年2月23日にはシュリアー中尉の強行偵察小隊所属する火炎放射器兵として摺鉢山に登り、最初の星条旗掲揚に関わりますが、その6日後の1945年3月1日に、硫黄島北戦区で日本軍陣地掃討中、迫撃砲弾片を右腕に受ける重傷を負い後送されます。その後硫黄島での英雄的行動と負傷に対して銀星章と名誉戦傷章を授けられています。そんな真の英雄であるリンドバーグ伍長ですら、戦後長年「嘘つき」呼ばわりされ続け、結局ニクソン大統領やクリントン大統領と面会を果たし、1996年にワシントンの硫黄島記念碑の落成に招待されるまで、公式には、摺鉢山上の最初の星条旗掲揚者と言う名誉を認められなかった訳です(2006年現在リンドバーグ氏は84歳で、星条旗掲揚者の最後の生き残り・・・とされています)

摺鉢山の山頂で撮影されたチャールズ・リンドバーグ伍長の雄姿。
現在(2006年)のチャールズ・リンドバーグ氏。
※ルイス・ローリー氏は晩年、自らが撮影した星条旗関連の写真の版権を全てリンドバーグ氏に譲っています。


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01月26日(金)
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