ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File127】男たちの硫黄島・・・Aある星条旗(ハタ)の物語【前編】
摺鉢山の山頂に翻った星条旗について語る前に、摺鉢山の戦闘について復習しておきましょう。硫黄島の東南端にある546フィート(166m)の死火山である摺鉢山は、敵よりも高地に陣取るという兵法の鉄則からも戦術上の重要拠点・・・硫黄島の大部分(海兵隊の上陸拠点が丸見え)が見渡せる絶好の観測地点で、日本軍守備隊1,700名余(陸軍二個大隊1,060名/海軍陸戦隊640名)が、網の目の様な洞窟陣地と主要砲台に配置されており、また米軍上陸部隊の第一の目標でもありました。摺鉢山の攻略を命じられたのは第5海兵師団第28海兵連隊。3月19日、山麓に接近した第一大隊は、日本軍砲台からの猛烈な反撃を受けます。日本軍陣地及び砲台の偽装は完全で、米軍の事前偵察では全く発見されていませんでした。結果第一大隊は、所属の中隊長が一人を残し全員戦死すると言う大損害を被りました。その後幾度か攻撃が繰り返されますが、M4戦車の支援も空しく、日本軍によって撃退されます。翌3月20日、第一大隊は部隊再編の為に後方へ後退させられ、今度は第二大隊が攻撃を開始します。海上からは巡洋艦や駆逐艦、砲艦等が海岸から300m程度まで接近し、第二大隊支援の艦砲射撃を加えました。艦艇の中には砲弾を消費し、再度補給を受けて砲撃を繰り返す艦もあったそうです。しかし摺鉢山の日本軍砲台からの反撃も凄まじく、大きな被害を被った艦艇も少なくありませんでした。3月21日夜半、その日決行された海軍特別攻撃隊第二御盾隊の突入に呼応して日本軍斬込隊が出撃し、米軍前哨陣地に殺到しましたが、圧倒的火力差によって撃退されました。3月22日、一時的なスコールによって日本軍守備隊は水分の補給が出来、また海兵隊の攻撃も一時停滞しますが、反面悪天候による日中の照度低下により、それまで巧みに擬装し発見が困難だった日本軍砲台が、その発射炎によって位置を特定され、次々に破壊されて行きます。摺鉢山の形が変わる程の二昼夜にわたる激しい艦砲射撃と艦載機による爆撃によって、日本軍砲台は全て破壊され、摺鉢山守備隊長厚地大佐も戦死。守備隊の兵力は300名程度しか残っていませんでした。生き残った日本軍守備隊兵士は、地下陣地の出入口に高射機関銃(海軍の13mmや25mm機銃等)を備え付け、山麓から登頂を試みる海兵隊員に向けて撃ち下ろし、大きな損害を与えています。結局海兵隊は二日間で200m程しか前進出来ませんでしたが、それでも火炎放射器やガソリン・黄燐、TNT爆薬を併用した爆破・生き埋め戦法によって、日本軍洞窟陣地をひとつひとつ潰して行きました。こうして日本軍の抵抗も次第に弱まり、海兵第二大隊は3月22日までには摺鉢山の山麓をほぼ制圧する事に成功します。3月23日、摺鉢山からの反撃が殆んど無くなったのを確認した第28海兵連隊第二大隊長チャンドラー・ジョンソン中佐は、副官ハロルド・シュリアー中尉に山頂の偵察を命じ、約40名の小隊を山頂の占領に向わせます。シュリアー中尉指揮する偵察小隊は、日本軍守備隊の大した抵抗を受ける事もなく40分程度かけて摺鉢山登頂に成功・・・午前10時20分最初の星条旗を山頂に掲揚(約二時間後に第二の星条旗と交換)しました。これは日本軍にとって島の最重要拠点の失陥を意味し、海兵隊にとっては将兵の士気を大いに鼓舞する・・・星条旗掲揚直後、山麓や上陸堡、海上の艦艇から一斉に喚声や銃声、汽笛が沸き起こる・・・出来事でした。その後の島の中部や北部の戦闘で、頂上を占領したシュリアー中尉指揮の偵察小隊42名中、無事に生還を果たしたのは僅か5名に過ぎません。3月23日夜、生き残った日本軍守備隊将兵は地区隊長松下久彦少佐に率いられ、包囲網を突破し独混第二旅団主力への合流を企図。残存兵力をもって総出撃を敢行。2300時頃海兵隊の前哨線に潜入するも、その大部分が途中で発見・射殺され、僅かに水野軍曹他25名が独混第二旅団司令部に辿り着けたに過ぎませんでした。
【摺鉢山の第二の星条旗】
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01月12日(金)
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