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ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File128】男たちの硫黄島・・・Bある星条旗(ハタ)の物語【後編】
2006年8月20日・・・彼はサンフランシスコのゴールデンゲートパークの近くの介護施設で老衰により亡くなりました・・・享年94歳。1911年にワシントンD.C.でユダヤ系ロシア移民の子として生まれ、その後写真に興味を持ち、世界恐慌後にサンフランシスコに移り、1932年サンフランシスコ・ニュース紙に入社して報道カメラマンとしての第一歩を踏み出します。第二次大戦中は極度の弱視の為に兵役は免除されますが、AP通信社に移籍し海兵隊従軍カメラマンとしてニューギニア、ホーランディア、グアム、ペリリューそしてアンガウル、硫黄島等の戦場を転戦。戦後AP通信社を退社し、サンフランシスコ・クロニクル社に入社。1970年代に引退するまで同社カメラマンとして活躍しました。ローゼンソールは生前「自分は一生に一度だけ、とてつもない大仕事に恵まれた」と常に話しており、また星条旗掲揚写真のヤラセ疑惑については「もしヤラセなら、あれほど良い写真は撮れなかったよ。私はただ幸運だったんだ」と話していたそうです・・・合掌。

なおローゼンソールと共に、第二の星条旗掲揚シーンを映画フィルムで撮影した海兵隊記録班のウィリアム・H・ジェノースト軍曹は、星条旗掲揚の9日後・・・1945年3月4日に硫黄島北部戦区における日本軍洞窟陣地掃討作戦に同行中、狙撃され戦死・・・その後洞窟陣地は爆破封鎖された為、遺体は現在に至っても収容されていません。

【第二の星条旗を掲揚した男たち】
ローゼンソールが撮影した第二の星条旗掲揚写真は、その後多くの新聞や雑誌の一面を飾り、上陸後四日間朗報もなく、増大する死傷者数ばかりを知らされていた米国民を歓喜させ、その年のピュリッツァー賞を受賞しました。マイケル・マンスフィールド下院議員(モンタナ州選出/後の駐日大使)は、米議会においてローゼンソールの写真の星条旗掲揚者たちを、第七次戦時国債募集(7th WAR LOAN DRIVE)のイメージ・キャラクターに登用する事を提案し採択されます。1945年3月20日、星条旗掲揚者中の生き残り3名の兵士が前線から呼び戻され、ホワイトハウスでハリー・トルーマン大統領と会見。写真を基にした戦時国債募集ポスターは350万枚が製作され、米国全土に配布されました。生存者3名が参加した第七次戦時国債募集は、当初募集金額目標の二倍233億ドルを集め大成功を収めます。また写真を基に切手が発行され、多くの絵画や彫像が製作されました・・・その内の代表的なものは、今もバージニア州アーリントンの合衆国海兵隊戦争記念館で武勇と犠牲のシンボルとして見る事が出来ます。この辺の事情はイーストウッド監督による『父親たちの星条旗』の中でも描かれておりました。今まで述べてきた様に、このローゼンソールの写真に写っていたのは、摺鉢山山頂に掲揚された交換用の星条旗であって、その場にいた者たちにとっては殆んど重要な意味を持たない物でした。しかし、この第二の星条旗に関わった6名の兵士たちの内3名は生きて島から出る事叶わず、生き残った3名の、後の人生に大きな影響をもたらした事は皆さんも良くご存知の通りです。

星条旗掲揚者6名の立ち位置

マイケル(マイク)・ストランク(Michael Strank)軍曹
第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月1日、星条旗掲揚から6日後、硫黄島西部海岸戦区で味方駆逐艦の艦砲誤射により戦死。享年25歳。
ハーロン・ブロック(Harlon Block)伍長
第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月1日夕刻、ストランク軍曹が戦死したのと同日(数時間後)、硫黄島西部海岸戦区において日本軍迫撃砲弾により戦死。当初星条旗掲揚者とは認定されず、代わりにハンク・ハンセン軍曹が誤認されていた。1946年5月アイラ・ヘイズの証言により誤認発覚・・・1947年1月15日合衆国海兵隊ヴァンデクリフト総司令官により公式に修正された。享年20歳。
フランクリン・サウスリー(Franklin Sousley)一等兵
第28海兵連隊第二大隊E中隊第二小隊所属:1945年3月21日午後2時半頃、ニミッツ提督による硫黄島公式占領宣言から5日後(日本軍の組織的抵抗の終わる数日前)に日本兵に狙撃され戦死。享年19歳。
アイラ・ヘイズ(Ira Hayes)一等兵

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01月21日(日)
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