ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File103】マカロニ戦線異状アリ・・・珍説イタリア戦争映画史《補説》
戦争映画に登場するイタリア軍は、多くの場合「軟弱な勝てない軍隊」として描かれています。ある時、日本人とドイツ人そしてイタリア人が、ヨーロッパのある酒場で酒を飲んでいたところ、イタリア人が真っ先に酔い潰れて寝てしまった・・・その時ドイツ人が日本人に耳打ちして言うには「次はイタリア人抜きでやろう・・・」なんてブラックジョークな笑い話があるくらい。しかし本当にイタリア軍は弱かったのでしょうか・・・イタリア軍が勝つ映画で思いつくのは「砂漠のライオン(LION OF THE DESERT/1981)」くらいですか・・・しかし第二次大戦開戦時のイタリアには、ヨーロッパでも有数の兵力を持つ陸軍があったし、ドイツ海軍の数倍の艦艇を保有する海軍を持ち、サボイアマルケッティ爆撃機やマッキ戦闘機など優秀な航空機を持つ空軍も結構充実した戦力を持っていました。では何故「イタリア軍は弱い」という風潮が浸透してしまったのか・・・考えられるのはイタリアが第一次大戦では戦勝国となった為に、軍部の組織的改革が遅れ、また大規模な遠征に伴う補給戦の観念が欠如していた事。ナポレオン亡後オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった北部諸都市が独立。サルデニア国王ヴィットリオ・エマヌエルニ世は、カブール、ガリバルディ将軍等と共に独立と統一を叫び、1870年9月20日イタリア王国が成立しました。第一次大戦ではドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国との三国同盟から脱退、連合国側で勝利しますが、戦争に勝ったからと言って昔の戦争の様に広大な領土を戦利賠償として手に入れ大きな利益を得られる訳でもなく、また1929年以降の世界恐慌の煽りで国家経済は破綻、社会不安は増大し、ドイツと同じくファシズムが台頭します・・・ムッソリーニは1919年に黒シャツ党を結成、国民の支持を得て、1922年10月ローマ進軍後、国王ヴィットリオ・エマヌエル三世から首相に任命されファシスト政権を樹立、その後ドイツ、日本と共に三国同盟を締結します。しかしドイツが敗戦から復興する為に、ファシズムによって国内を強力に纏め上げ、最新の軍備を再建したのに対し、ムッソリーニはヒトラーほど独裁態勢を固められず、結局は第一次大戦型の古い組織をそのまま引き継いだ軍を、俄か政権のファシストが率いて、経済を立て直す糸口を北アフリカに求め「地中海を再びイタリアの海に」と叫んでいただけ・・・。ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次大戦に1940年6月10日イタリアも参戦・・・ムッソリーニは、この戦争で「戦勝国」となる為に早期参戦が必要であると判断・・・。しかし結局北アフリカにおける英軍と戦いに敗北。第一次大戦から発達していない補給軽視の軍組織機構では、百戦錬磨の英軍に勝てる訳がない。結局同盟国ドイツのヒトラーに泣きつき、独軍部隊が北アフリカに派遣され、ロンメルにより英国はスエズ運河を放棄する一歩手前まで追い込まれます。しかしここに至って、イタリア軍の軍組織機構が又も足を引っ張ります。地中海経由のアフリカ派遣部隊への補給路護衛はイタリア海軍の任務でした。これはジブラルタル海峡を英国が押さえている為、独海軍が地中海に艦隊を派遣出来なかった事によるのですが、世界でも有数の海軍戦力を持ちながら、地中海という「井の中の蛙」だったイタリア艦隊は、世界の七つの海で鍛えられた英国海軍の敵ではありませんでした。イタリア海軍の巡洋艦や駆逐艦は「世界で最も美しい軍艦」と言われ、優雅な艦体と高速を誇っていましたが、反面防御面に弱いという欠点を持っていました。低速の輸送船を護衛する為には、高速性は殆んど役に立ちません。逆に低速でも撃たれ強い艦体が必要なのです。その為、結局は地中海の制海権を握る事は出来ず、逆にイタリア本土の軍港の中に逃げ込む始末。こうして北アフリカ方面への補給路は閉ざされ、最終的に北アフリカの枢軸軍は敗退・・・大量の捕虜を出してしまいます。イタリア軍にも戦車師団や空挺師団、空軍、海軍の魚雷艇や特殊作戦部隊など勇猛で鳴らした部隊は幾つもありました。しかし西洋の軍隊には、日本兵の様に武器弾薬や食料が無くなっても「玉砕」までして戦い抜くなんて観念はありません。所詮この戦争はファシスト=ムッソリーニが始めた戦争です。当時のイタリアは、国王ビットリオ・エマヌエル3世を君主と仰ぐ王国でした。ファシスト(黒シャツ党)が政権を握り、ムッソリーニが党首=統領(DUCE/ドーチェ)として君臨していましたが、政府内での彼の役職は首相。イタリア軍はムッソリーニの軍隊ではなく王国の軍隊・・・軍人たちはムッソリーニではなく国王に忠誠を誓っていました。この辺は総統ヒトラー個人に忠誠を誓わされた独軍人とは異なります。「腹が減っては戦は出来ない」・・・結局、武器弾薬、食料の補給もないイタリア兵たちには、ムッソリーニの為に死ぬなんて考えはありませんでした・・・旧式な装備と戦術、武器・弾薬・食料等補給の欠乏の中、イタリア兵たちは善戦したのですが、敗退が続き厭戦の空気とムッソリーニへの不満が増加、前線では禄に抵抗もせずに降伏する将兵が相次ぎ、1943年3月イタリア国内で大規模な労働者のストライキが発生し軍需生産が停止、前線の物資不足に一層拍車を掛ける事となります。また東部戦線でのイタリア軍は、他の枢軸軍(ハンガリー軍やルーマニア軍等)と同じく、長く伸びた独軍戦線の穴埋め的に配置されていましたが、一般的に独軍よりも装備が悪く士気も低かった為、ソ連軍の集中攻撃で早々と敗退してしまいました。こうして北アフリカでの敗北と東部戦線での瓦解、海軍主力艦の消極的な行動が、独軍人気が高まる中で「独軍のお荷物」的な存在として「イタリア軍は弱い」というレッテルを貼ってしまったと思われます。
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02月01日(日)
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