ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File098】あゝ邦画戦争映画は燃えているか・・・Shall We タンク!【中編】
1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌以降、日本国内でも農村部の困窮と疲弊、都市部における企業の倒産と失業者が増大・・・一方で政財官の癒着や汚職が蔓延し、軍部の青年将校を中心として、それらの根源を腐敗した元老・重臣による悪政とそ、天皇を取り巻く「君側の奸」を排除すべし、という「昭和維新」思想が広まりつつあった。そんな内憂とともに、日本国内の不況を打開する為の政策として、勢力を朝鮮・満州に伸ばしつつあった日本に対し、欧米列強は自分たちの権益を脅かす存在として、経済制裁による様々な圧力を加えており、これが外奸となっていた。そんな中、軍部では、窮状打開の政策を巡って派閥抗争が繰り広げられていた。主に各部隊付きの青年将校を中心として北一輝や西田悦らの思想を根本とした天皇親政による国家革新を唱える皇道派=A総力戦・戦時経済体制の国家を確立し、合法的手段によって政財官界への軍部の発言権を増大させようとする陸軍省や参謀本部の幕僚将校を中心とした統制派=Aこの二大派閥による陸軍内部の主導権争いの激化する中、1935年(昭和10年)皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭に怒った相沢三郎中佐が、統制派の先鋒永田鉄山軍務局長を斬殺する事件が発生・・・青年将校たちは相沢裁判をキッカケとして、、それを荒木貞夫や真崎ら皇道派の将官が支持、両派の対立は益々激化していた。
【決起事件の経過】
@事件一日目2月26日午前五時過ぎ
■歩兵第三連隊(a)野中隊(500名)・・・警視庁占拠。一部は朝日新聞社を襲撃。(b)安藤隊(204名)麹町三番町の鈴木侍従長邸襲撃・・・拳銃で鈴木侍従長を負傷させ軍刀で止めを刺そうとしたが、夫人の懇願により果たせず・・・これによって鈴木侍従長は一命を取り止めた。(c)坂井隊(210名)・・・四谷仲町の斎藤実内大臣私邸を急襲し斎藤実内大臣を射殺。(d)高橋・安田隊(30名)+田中隊の一部・・・杉並の渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸へ向かい、拳銃で応戦した渡辺総監を射殺。
■歩兵第一連隊(a)栗原隊(280名)・・・首相官邸を襲撃。察官4名を射殺、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐(首相の義弟)を射殺。岡田首相は女中部屋の押入に隠れて助かる。(b)丹生隊(170名)+田中隊の一部・・・陸軍大臣官邸占拠。陸相他陸軍上層部への工作を行う。(c)河野隊(8名)・・・熱海湯河原の牧野伸顕伯爵別荘を襲撃するも、伯爵は無事救出される。この時河野寿大尉は負傷し部隊と合流出来ず、陸軍第一衛生病院熱海分院に収容。
■近衛歩兵第三連隊(a)中橋隊(130名)・・・赤坂の高橋是清大蔵大臣私邸を襲撃して高橋蔵相を射殺。
■歩兵第七連隊(a)田中隊(14名)・・・市川よりサイドカー・乗用車・トラックにて東京に進出。半数は高橋・安田隊に合流。残りは丹生隊と合流。
事件発生後、皇道派将校は決起部隊を擁護し事件の「穏便な解決」を目論んでおり「お前達の決起の主旨は天皇陛下の耳に達した」という説得文を作成、速やかに占拠を解けば、事件は不問に付すという様な妥協案を練っていた。しかし事態は皇道派の思惑通りには運ばず、予想し得なかった事態・・・天皇自身が激怒、決起部隊を「暴徒、叛乱軍」と呼び、川島陸相に「叛乱の速やかなる鎮圧」を強く命じた・・・体勢は「叛乱軍の強硬鎮圧」へと傾く。杉山参謀次長は第一師団の東京出動を命じ、東京に戒厳令を布告、海軍も横須賀から第一水雷戦隊を急派、特別陸戦隊を芝浦に上陸させ、また土佐沖で訓練中だった連合艦隊から第一艦隊を東京湾へ、第二艦隊を大阪沖へと向かわせた。
A事件二日目2月27日
天皇は事態の収拾に手間取る陸軍の対応に苛立ち「自ら近衛師団を率て鎮圧に出動する」と言われ、陸軍首脳部を混乱させた。東京湾に到着した第一艦隊は全砲門を東京市街に向け決起部隊を威嚇。そんな中、安否不明だった岡田首相の生存の情報が伝えられた。事態は決起部隊にとって一層不利となった。
B事件三日目2月28日
夕刻、遂に「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下る。この時、青年将校たちの「昭和維新」の夢は崩れ去る。
C事件四日目2月29日
早朝より決起部隊に対し「今からでも遅くない」という原隊への帰隊勧告が行われた。昼過ぎから決起各部隊の帰隊が始まり、青年将校中最強硬派であった安藤大尉の拳銃自決(未遂に終わる)を最後に、事件は終息。
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10月31日(金)
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