ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File078】戦場の好敵手・・・多勢に無勢【中編Vol.2c】
南北戦争・フロンティア期の米国軍人。1839年ミシガン州モンロー(オハイオ州説もある)生まれ。1857年ウエストポイント陸軍士官学校入学。1861年卒業(南北戦争勃発の年:同級生の半数近くが卒業前に南部に戻った)。専攻兵科は騎兵科。学科筆記科目の成績は級友中最下位、しかし戦闘実技(射撃、剣術、乗馬、状況判断等)はトップクラスの成績だった。最初配属されたのは砲兵の輸送隊や弾着観測気球隊だったが、1863年念願の連邦(北)軍第2騎兵隊に配属(大尉:騎兵中隊長)。バージニアの戦闘で、危機状態の友軍騎兵を救援し敵を撃退、この功績によりミシガン州義勇騎兵旅団長(連邦軍義勇名誉准将:23歳:連邦最年少将官/戦時特進)に任命された。南北戦争最大の激戦「ゲティスバーグの戦い」において、名将スチュアート将軍指揮の南軍騎兵主力(500騎)が実施した迂回奇襲作戦を劣勢兵力で応戦し、これを撃退。1865年連邦軍義勇名誉少将に昇進。以後各地を転戦し、4月12日南軍総司令官リー将軍の降伏調印の場面にも立ち会った(この降伏調印に使用された机は、後にシェリダン将軍からカスター未亡人に贈られた)南北戦争における最も著名な英雄の一人。戦後、軍の平時編制移行に伴い階級が正規軍大尉に戻るのを不服として一時退役し、故郷に戻り結婚(妻エリザベス・ベーコン/愛称リビー)義父の仕事など手伝うが、軍への復職願望が強く、知古を通じた猟官運動の結果、1866年第七騎兵連隊付中佐(連隊長ではない)に任官。実質的部隊指揮と訓練を担当し、インディアンとの抗争が始まると部隊を率いて各地に出動。1968年11月27日にはオクラホマ州ワシタ河畔でシャイアン族の集落を襲い、虐殺事件を起こす。後、過酷な任務を部隊兵士に課し命令を拒否した兵士へ厳しい処罰を行った事により一時休職させられ、また前任の陸軍長官ベルクナップ将軍(グラント大統領の親友)が関わった軍事物資の不正取引を糾弾した為に軍務を解任させられそうになる(以後グラント大統領に睨まれる)等常に問題を起こした。1874年シェリダン将軍の命により、部隊(政府関係者・学者・鉱山技術者と護衛兵士計1000名)を率いスー族保留地(1868年ララミー条約にて認定)内のブラック・ヒルズを探査し金鉱脈を発見(カスターが政府に出した報告書は「ブラック・ヒルズ地域が金鉱地としても酪農業地域としても最適である」という内容で、それにより大規模な開拓移住とゴールド・ラッシュを誘発、以後のインディアンと白人との抗争・・・ひいては自らの死の要因となる・・・)1875年ブラック・ヒルズ領有を巡る合衆国政府とインディアンとの交渉決裂が誘発したインディアン討伐戦が始まると、ダコタ軍のテリー将軍指揮下で第七騎兵隊を率い、居留地から逃亡したスー族とシャイアン族を追撃した。1876年6月17日に行われた「ローズバットの戦い」により当初予定の作戦(他部隊合同の挟撃戦)が実行不可能にも関わらず、指揮下第七騎兵隊主力のみでインディアンの一大野営地リトル・ビッグホーン河畔へ向かう。6月25日、自ら主力大隊を率い挟撃作戦を試みるも敵兵力と配置の判断を誤り、スー・シャイアン族中心の部族連合大集団に包囲され、部隊は全滅、自らも戦死した。享年37歳。その墓碑銘には「合衆国陸軍名誉少将は1839年12月5日ミシガン州モンロー郡に生まれ、1876年6月25日リトル・ビッグホーンにて、全部隊と共に散る」と刻まれている。南北戦争時より長髪の金髪と黄色の絹製スカーフを靡かせ、専属の仕立屋による派手な軍服(士官以上は軍服は自前)で目立っていた(当時まだ珍しかった写真肖像@ 肖像A 肖像B 肖像C 肖像D 肖像Eを数多く残している事からも、目立ちたがりの性格が伺える)が、第七騎兵隊に配属後は白い鹿皮で出来たジャケットで一層目立つ格好をし、実際の階級は中佐だが部下には将軍≠ニ呼ばせていた。愛用の銃はコルト・パーカッション・モデル61ネービー。愛馬の名はダンディ=Bベトナム戦争以前、彼に対する大半の評価は「南北戦争の英雄で、フィロンティア開拓の大いなる犠牲者」であったが、ベトナム戦争以後、民族・人権主義運動が昂揚してくると「若くして将官の地位に昇った為に精神的未成熟で、利己的かつ自己顕示が強く、自らの野心や出世欲(最終的には合衆国大統領)の為には部下や女子供の犠牲も厭わない冷酷な軍人」というような評価に変わってしまった。しかしある意味(@インディアン虐殺は政府・軍の方針A志気の低迷していた部隊を鍛え直したB軍務解任と引き換えに不正に目を瞑らせられたC自らの素行故か10年近くも昇進がなかった、等)彼は「常に軍の命令と任務に忠実であろうとし、何よりも第一線で部下と共にある事を望んだ根っからの兵士・・・騎兵だった」とも言える。そして伝記によれば「彼は勇気と自信を兼ね備え、常に危険と栄光を求めた。全くアルコール類は嗜まず、煙草や賭け事もやらなかった。時に楽天的で情熱的、また精力的で粘り強く、名誉を重んじ臆病を最も嫌った。豪胆で自制が効かなくなる事も度々あったが、反面温かい心の持ち主で、家庭では忠実で献身的な夫であった・・・」と。

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03月07日(金)
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