ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File077】合衆国軍VSインディアン激闘史・・・多勢に無勢【中編Vol.2b】
前置きはさて置き、今回は前回の書き込みの補填書き込みですので、取り敢えず目を通して下さい。今回は【開演ブザー】は鳴りませんので、携帯の電源はそのままで・・・【毎度の事ですが、本記事に史料的価値はありません】寝惚け頭で急いで書き込んだので誤記多数・・・だと思われます。
【合衆国政府VSインディアン闘争史】
1803年
ジェファーソン大統領が「われわれが手を振り降ろしさえすれば粉砕されてしまうことをインディアンは理解すべきだ」と述べ、対インディアン強硬政策を推進。
1812年
「バトンルージュの戦い」クリーク族と白人開拓者の戦い。1814年まで続き白人側が勝利。クリーク族はジョージア、テネシーからフロリダに追われる。
1816年〜1818年
「第一次セミノール戦争」フロリダに逃亡したアフリカ系奴隷を追跡した合衆国軍とセミノール族が戦う。2年に渡って小競り合いが続く。
1817年
「ジョージア移住条約」チェロキー族と合衆国政府の間で土地割譲の条約締結。
1830年
ジャクソン大統領が「強制移住法」を制定。最終的に100,000人にも及ぶインディアンがミシシッピ川以西のインディアン=テリトリー(オクラホマ)へ移住させた。
1832年
「バッドアックスの戦い」強制移住に反対したブラック・ホーク酋長に率いられたサック族が三ヶ月に渡って合衆国軍に抗戦したが、制圧される。
1832年〜1841年
「第二次セミノール戦争」セミノール族のフロリダからの退去(ペインズ・ライディング条約)に抗議した大酋長オセオーラが蜂起。合衆国軍は討伐部隊(総動員数20万人)を送り込むが制圧に至らず。この間セミノール族はエヴァグレイズに拠点を移す。1837年12月25日「オキチョビ湖の戦い」オセローラを捕らえ、その後1838年1月30日モルトリ砦にて死亡した事により抵抗は急激に沈静化し、1842年終結。
1838年
移住を拒否し続けたチェロキー族12000人が激寒の中、五ケ月かけオクラホマへの長い行程を強いられ、この間、寒さと飢え、病気、暴行によって8000人以上の命が失い、後に「涙の旅路」と呼ばれる。この結果ミシシッピ以東は、ほぼ完全に白人の物となる。しかしミシシッピ以西には、まだ30万人近い平原インディアン(スー・シャイアン・コマンチ・ナヴァホ・カイオワ-アパッチ・クロウ・オセージ・ソーク・フォックスなど狩猟系部族が主体)残っていた。
1845年
合衆国にテキサス共和国併合。25000人のインディアンが合衆国統治下に入る。15000人のコマンチ族は合衆国への統合を拒否。この後10年間コマンチ族とアパッチ族はゲリラ戦を展開し白人開拓民たちを大いに悩ませた。
1851年
合衆国と有力部族(スー、シャイアン、アラパホ等)との間で「ララミー砦(平和)条約」締結し、白人開拓民の安全を金で買う。文字を持たないインディアンには条約が理解出来ず、その後この条約は白人側に都合良く解釈・改定される。1860年〜1875年の期間、白人猟師による乱獲でバッファローが激減。この為インディアンたちは土地と引き換えで得た金で白人から食料を購入せざるを得なくなる。しかし飢餓は深刻で、白人に対する怨恨が増大。
1855年
「ヤキマの叛乱」ヤキマ族と同盟部族がワシントンとアイダホの州境付近で蜂起、白人入植者を襲ったが追討軍の攻撃により酋長オウヒが戦死し敗退。
1860年
「ピラミッド・レイクの戦い」ネバダ州で餓えたパイユート族がヌマガ酋長に率いられ白人居住地を襲い、2度の戦闘の結果、鎮圧され保留地へ移住させられる。
1861年
「南北戦争勃発」北部工業地帯と南部農業地帯間の対立、各州での奴隷制賛否を巡る対立が表面化。南部諸州が連邦より脱退・・・J・デービスを首班とする南部連盟′巨ャ。首都リッチモンド。両軍が各地で激戦を展開。
1862年
ミネソタでの「サンティ・ダコタの叛乱」勃発。リトル・クロウ、マンケート、ビッグ・イーグルの各酋長に率いられたサンティー・ダコタ(スー)族がミネソタ州内の白人農場、商人交易所、騎兵隊駐屯地を襲撃。数週間で1000人近いの白人を殺害、ヘンリー・H・シブリー将軍指揮のミネソタ義勇部隊1500名が救援に向かう。叛乱の首謀者として38名のインディアンを処刑。
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02月26日(水)
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