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ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File070】あゝ邦画戦争映画は燃えているか・・・阪妻$カ誕百周年記念『殿様と御家老と足軽』
今年は日本映画界稀代の名優の一人阪東妻三郎(以下略:阪妻)≠フ生誕百周年だった・・・いや、なのですが、皆さんご存知でしたか?記念映画祭なんかも開催されてましたっけ。先日芸能関連の新聞記事を読んでいたら、今や俳優としての地位を確立している御子息三人(長男:田村高廣/三男:正和/四男:亮)と芸能界とは関係のない仕事をしている次男の方が集まり、故人を偲んで対談しておりました。それでは故人の略歴をば述べて見ましょう・・・阪妻は1901年12月14日(おお討入りじゃ・・・)東京生まれ。高等小学校卒業(15歳)後に芝居の世界を目指し、17歳で初舞台を踏んだそうです。1922年5月公開の「中将姫」で晴れて銀幕デビュー。1923年マキノ等持院(映画製作所)設立に参加し、脇役として19本の作品に出演。同年10月公開の『鮮血の手型(前後篇)』で初主演を飾り、彗星の如く人気俳優へと登りつめます。1925年独立し阪東妻三郎プロダクション≠設立。その後松竹と提携し、数々の時代劇ヒット作品に出演しました。1926年には自ら撮影所を設立し、阪妻プロは日本映画界の中で飛ぶ鳥をも落とす存在となります。しかし盛者必衰の理≠フ通り、阪妻の演技は次第にマンネリ化、人気は徐々に低迷して行きます。そして1930年代のトーキー映画の到来!その波に乗り遅れた阪妻は、1935年10月公開の『新納鶴千代』でトーキー作品に初出演するも、そのか細く繊細な声質≠ェ祟って、無声映画の力強い声質≠フイメージを抱いていた多くのファンの失望を買います。そして1937年1月公開の『怒涛一番乗』を最後に12年間続いた阪妻プロ≠ヘ解散・・・。同年日活京都撮影所に入社後、声質を変える訓練を重ね、1937年7月公開の『恋山彦(前後篇)』では、将に剣戟王≠フ名に相応しい殺陣を披露。以降1937年12月公開の『決煙高田の馬場』1938年3月公開の『忠臣蔵(地の巻・天の巻)』1939年8月公開の『牢獄の花嫁』9月公開『牢獄の花嫁解決篇』と立て続けにヒットを飛ばし阪妻復活≠アピールしました。1942年3月公開の『将軍と参謀と兵』では、初めて現代劇に出演。同年5月、戦時下統合による日活の大映吸収後、片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・市川右太衛門と共に四大スター初共演の『維新の曲』に出演(坂本龍馬役)し話題を博しました。1943年10月、阪妻最高の代表作『無法松の一生』では、無知で貧しい車夫富島松五郎*を熱演、時代劇スターからの見事な脱皮を図りました。戦後GHQ統制下の日本映画界で、時代劇の製作が制限されると1945年11月公開の『狐の呉れた赤ん坊』や1948年10月公開の『王将』などで演技派俳優≠ニしての評価を得ます。1949年フリーとなり、5月公開の『佐平次捕物帖・紫頭巾(前後篇)』に出演。同年松竹と専属契約を結び12月公開の『破れ太鼓』1951年11月公開の『大江戸五人男』など次々にヒット作品に出演。しかし1953年『あばれ獅子』撮影中に倒れ、同年7月脳膜出血により死去しました(享年51歳・・・来年は没後50周年です)。前述の通り、子息4人中、次男を除く高廣・正和・亮の3人が父と同じく俳優の道を進み、現在に至っています。

【邦画戦争映画における大規模動員戦闘映画】
前述の如く、それまで時代劇一筋だった阪妻が始めて現代劇に出演した記念すべき作品、それが1942年3月に公開された『将軍と参謀と兵』であります。

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12月10日(火)
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